シェーンベルクの『モーゼとアロン』 アリアドネ・アーカイブスより
シェーンベルクの『モーゼとアロン』
2013-08-08 12:49:19
テーマ:音楽と歌劇
・ 以前、ストローブ=ユイレの映像を観たのだが、良く分からないことだ。
旧約の世界では、ある日モーゼに天啓とも云える啓示が伝えられ、それは飢えと貧困を避けて一時エジプトに避難していたイスラエル人を、神話的故郷であるカナンの地に導け!と云う途方もないものであったのだが、それが自明のものでなかった証拠に幾度かモーゼは神の前で辞退して見せるのである。それで神は補助役として兄弟のアロンを指名する。
こうして映画などでも有名なシナイ半島をめぐる謎の巡礼と彷徨の世界が出現する。
オペラの方は、有名な海道渡りのスペクタクルがなくて、見えざる神をめぐる人民の動向と、モーゼ、アロン兄弟の果てしない問答、そしてアロンの死と云うことで終わっている。
それにしても解らない。
解らなさにも水準があって、まず第一に十二音技法と云う音楽が解らない。
第二に、旧約聖書の神と云うものが解らない。
第三にシェーンベルクの劇に籠めた意図と云うものが解らない。
旧約の神は、ある意味で人間的でありある意味で反人間的である。
人間的であると云う意味は、人間の理解できる範囲の感情を持っているように思える。
非人間的であると云う意味は、寛大で寛容であるかと思えば、時に復讐と嫉妬の感情を自分でも制御できぬかとも思えるほど激しく、尊大であり、それは崇高さと云うよりもある種の品性の悪さ、育ちの悪さを感じさせてしまう。
品性が劣悪であると云っても、イスラエル人に比べれば善良であって、イスラエル人の劣悪さは、金色の動物神を鋳造し、礼拝し、集団ヒステリー的な酒池肉林を描いた乱交の場面に明らかである。
キリスト教の神の面白いところは、全能を謳いながら、幾度か天地創造の事業に失敗し、仕切り直している点である。この段で行けば、モーゼに率いられたイスラエル人は、ソドムとゴモラの民のように、この世から殲滅されるのが相当の運命であった、かのような印象を受ける。
つまりシナイ半島の謎の彷徨は、堕落したイスラエル人とそうでないものを選別するための、飢えと貧困に晒された過酷な適者生存の、選別の旅であった、と云うことなのだろう。
一方、モーゼとアロンの対立は、唯一の神か多神教の神かと云う対立ではない。
見えざる神のこの世への臨在の在り方をめぐって、過酷に、生まれや素性を無視して裁断するモーゼの原理主義に対して、方便として、過渡的な段階として「顕れる神」をめぐる対立であるように思える。
神が、常に見えざる神としてしか顕れない、とはどう云うことだろうか。
このオペラでは、アロンはテノール歌手によって歌うように演説し、モーゼはまるで機械音のような無機的な語りによって語る。流暢な説教を期待されて起用されたアロンと、不器用なモーゼの語りを象徴しているのだろうか。
モーゼの苛烈な叱責の前に崩れ折れる、歌の伝道師アロンの死は何を意味するのだろうか?