アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

『モーゼとアロン』 アリアドネ・アーカイブスより

モーゼとアロン
2013-08-10 00:48:54
テーマ:音楽と歌劇

http://ecx.images-amazon.com/images/I/513K2JF38VL._SL500_AA300_.jpg
・ 第一幕は、モーゼに神の啓示が降り、指導者としての役割を受命するか否かをめぐる神との問答が描かれる。結局、神の思想を持ってはいても、それを正しく民衆に伝えることが出来ないと云うモーゼのいい訳を受け入れて、神はさらなるモーゼの代弁者としてアロンを指名する。
 アロンの語りは、テノールによる歌うような高唱である。
 モーゼの語りは、機械音のような無機的な朗誦である。シェーンベルクは口踊性の言語に対する不全性を、こうした形で表現しているのだろうか。それとも見えざる神について言及する言語は、歌謡的な語りでは尽くせないと考えているのだろうか。
 モーゼとアロンの間にあった対立は、民衆への神の啓示を伝える段で顕在化する。民衆を見えない言語で説得することは不可能であり、見えざるものを見えたかのように思わせる方便、――すなわち、奇跡の意義がアロンによって説かれる。

 第二幕は、神からの掟を受命するために山に登ったモーゼが40日間帰ってこないので、民衆の間ではモーゼは死んだと思われ、貧困と希望の無さが民衆を暴動へと駆り立てる。仕方なく、アロンは唯一の神を捨て、昔の多神教の神々を受け入れる。アロンの指導で宝飾類を鋳つぶして黄金の子牛の像が鋳直される。民衆は動物神の前で犠牲を奉げ、この世での因果応報と希望を否定する。心あるものは自殺へと追い込まれる。
 そこにモーゼが山から降りて来る。モーゼはアロンにこの惨状を問い糺します。民衆は少しでも希望がある限り過酷な運命にも耐えるものだが、あらゆる希望を断たれた民衆には見える印が必要であった、と説く。偶像崇拝の可否をめぐる二人の議論は、神を愛するか民衆を愛するか、と云う点でも対立を見せる。モーゼによれば神のみ心を理解することが即ち民を愛すると云うことなのである。モーゼは石版にかかれた十戒を示すのだが、アロンは十戒すら偶像のひとつではないかと反論する。
 モーゼは、将に自分に掛けているのは「言葉」であることを理解し、石版を叩き割ってしまう。
 第三幕は、後ろ手に縄を掛けられ地面にねじ伏せられたアロンを挟んで、右側に二人の武装した兵士が、左側に勝ち誇ったモーゼが居る。
 二人の最後の議論は、「概念」と「形象」をめぐる議論である。神の「概念」的理解は正しくとも民衆に伝わることはない。形象的な言語は民衆の前に可視的な神の言葉を現象させるが、所詮は人の言葉であるがゆえの限界ゆえに、語る自らを語ることにしかならないのではないのか、モーゼはそう反論する。
 アロンはモーゼの口汚い叱責と兵士の武力の誇示の前に事切れる。

 モーゼとアロンには何が欠けていたのだろうか。
 モーゼの神の理解は硬直しており、イスラエル人のカナンの地への彷徨を選民思想の実現としてしか観ていない。アロンは民衆への愛を語るけれども、愛自身が自体的に語ると云う契機を欠いている。概念なき理解は盲目であり、経験(形象)なき理解は不毛である。偶像崇拝の陥穽から如何にして脱却するか。
 ある人によれば、イエス・キリストの生涯は、見えざる神の顕現であるのだから、それを写すことは偶像崇拝には該当しないと云う。何となれば、偶像崇拝とは人間の側からの理解や解釈に基ずいた可視的なイメージのようなものの一つであるのだから。
 人類が編み出した難しい議論の一つではないかと思う。

 それよりも、わたしは復讐心や嫉妬を剥き出しにする旧約聖書の神が好きである。全能と云いながら、こと自らの立ち姿に似せて造ったと云われる人間に対してだけは、どうも天地創造の処遇が上手くいっていないかの如くである。
 わたしには、この神が、何度か天地創造のドラマを手直ししているうちに思わず厭世的になって疲労の皺が刻まれた、蒼ざめた老人の顔を思い浮かべる。その非力な老人の横顔を美しいと思うのである。