アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画と小説の文法 アリアドネ・アーカイブスより

映画と小説の文法
2013-08-14 16:03:03
テーマ:文学と思想

・ 文学作品の映画化の難しさは、様々な水準で存在しますが、やや荒っぽい云い方をすれば、小説は掌の小品からバルザックの人間喜劇のような、無限大の拡散化を許容する文学形式であるのに対して映画は、二時間、せいぜい三時間と云う時間幅の限定の内に成立する事情があるため、小説の映画化とは必然的に取捨選択、ある種の固有な「解釈」を伴わなければならないわけです。かかる外的な形式性を、外的不平等について自覚的であることのない映画論、例えば映画がダイジェストにすぎないとか、小説どおりでないとかと云う映画論を、たまに目にすることがあります。

 そうしたことを何となく考えていたら、――随分ぐるい話題ですが、『ラマン』の映画化に当たって原作者のマルグリット・デュラスの側からの不評、と云うことを耳にしました。その詳細は置くとして、直感的に私などが原作とその映画化を見較べて感じるのは、映画の方のヒロインを演じた中国系の華僑の青年の容姿が余りにも立派すぎて、原作にそぐわないと感じたことでしょう。これはミスキャストです。しかし原作が有名なマルグリット・デュラスと知らずに映画だけを純粋に鑑賞したとするならば、これはこれで良いように思えて来るのです。運動不足の青白い容姿をした留学経験のあるお金持ちの華僑の息子が如何にして純愛物語のヒーローになりえたのか?それは芸術家の形象的な造形的な魅力と云うよりも、元来、恋愛感情の中に埋もれてある敬意の感情が、こうした理想化を恋人たちに齎すのです。
 映画、文学の両世界を読み比べて腑わけし、比較することの難しさを観じたのは、芸術家のデフォルメ力の程度でした。これは作者の背景や資料について相当に読みこんでいないと単純には云えないと思うのですが、そこはアマチュアの特権を利用して憶測を逞しくすれば、華僑の青年の理想化はデュラスの半世紀近い歳月の中で徐々に時の変容作用を受けて理想化を遂げたものであろうし、東洋の青年の背後に早世した蒼ざめたデュラスの二男の面影を読み取らなければデュラスファンとしては想いが尽くせないような気がします。すなわち、早世した次兄(殉教者)とそれを悼むもの、と云う構図ですね。これは「ピエタ」として西洋絵画にしばしば登場する絵画的素材なので、こと改めてここで云うのも教養の程が知れて恥ずかしいほどなのですが、ジャン・ジャック・アノーの映像では、人間的営為の元型性、と云う側面が希薄になるのです。愛の殉教者デュラスの不満もまた、映画化に際して自身の自伝的エッセンスが希薄にならざるを得なかった点にあったのではなかったかと思う訳です。
 にも拘らず、アノーの映画『ラマン』は、冒頭のメコンのデッキでの頬をなぶるほつれ髪の壮大な描写とともにラブロマンスとしては素晴らしい作品なのです。また、実際に二人がどうであったと云う云うよりも、愛する者たちの目には現実がどのように見えたかと云う意味で、必然性を帯びた描写であったと思うのです。

 デュラスのもう一つの代表作『モデラート・カンタービレ』に於いても同様の事情がありました。文学史的詮索をするならば『モデラート・・・』の背後には、近くはモーリアックの『テレーズ・デスケルー』のランドの風土が、遠くはフロベールの『ボヴァリー夫人』などのフランス文学の伝統があったことは間違いのないことでしょう。原作がセーヌ河口の町を想定していることから推測すると、演出家ピーター・ブルックの構想は、――舞台をジロンド河口の港町に設定したことは単なる思い付きではなく、フランス文学史的な伝統を踏まえ、より一層の原典化、象徴的典型化を希求した結果であるとすら解釈できるのです。また実際にヒロインを演じたジャンヌ・モローは映画化に際してあらゆる他の活動を犠牲にしてまでも一カ月以上も前から現地に乗り込み、しかもホテル暮らしではなく民家を借りきって自炊生活をする「現地化」を実践した、と聴いています。つまり舞台をセーヌ川河口から広義のランド地方への転換をブルックの単なる便宜的事情や偶然とは彼女がみなしていなかったことを語っています。モローは、テレーズ・デスケルーの生活した風土を歩いてみて松風の響きを心に刻み、潮風の香りにデスケルーの絶望を読み取ったのだと思います。単なる、フランスのいち女優が映画化に際しての下ごしらえなどの瑣末的事象ではなかったのです。映画監督ブルックの意を請けたモローの映画女優としての営為は、フランス文学史の伝統的な解釈を映画化の世界に持ち込む、それも何の気負いもなく普通のこととして、女優がプロフェッショナルなものであるならば当然の義務であるかのように遂行したことです。

 さて、そうした演出家ピーター・ブルックと女優ジャンヌ・モローの営為にも関わらず、映画と小説では大きな違いがあります。映画では最後の結論的な場面で、愛の殺人劇が未遂行に終わったあと、死者のようになった人妻を夫が介抱しながら車に乗せる場面があります。デュラスが云うに、これでは人妻が以前のブルジョワ生活に復帰していくかのように誤解されかねない、と云うものでした。まるで条件さへ変わればテレーズが普通の人妻として後半生を送ったと云わんばかりの荒唐無稽なものに感じられたのです。
 マルグリット・デュラスは自覚的に宗教について語ったことはありませんが、彼女の意識的な教養や素養以前にキリスト教的な人間ドラマの元型性は深く翳をおとしていると思われます。デュラスには、自作について語った「殉教と剽窃」と云う有名な言葉がありますが、殉教とはこの世では畢竟「剽窃」と云う形でした顕れないと云うイロニカルな宗教観があったのではないでしょうか。つまり神が「隠されたる神」とでしか顕わされるこのとない時代に於いては、「殉教」ももた畢竟「剽窃」と云う形でしかこの世では実現しえないのではないのか。その「剽窃」が持つ十字架上の葡萄酒が持つ苦味を感受しえないならばこの作品は読み解けないのです。
 原作にも映画にも描かれなかったアンヌ・デバレードの今後の運命を占ってみましょう。アンヌは、あるいはテレーズはあのあとどうなったか?デュラスは「狂気の世界に!」と正しく言い当てています。映画化に際してのブルックの与えた結論が如何に彼女の感情を逆なでするものであったかが分かろうと云うものです。しかし、狂気を通じて犯罪と云う契機を持つならば、解りません!魔的なものを通じて、悪が持つ聖なるものと相似関係にある形式性を梃子に、逆転的な形で聖なるものを希求し手繰り寄せると云うアクロバッティングな離れ業も不可能なことではない、しかしこれはデュラス文学の範疇を超えた問題というべきでしょう。

 映画、小説、宗教的元型性の違いについて、相違はあるものの、やはり映画『雨のしのび逢い』の魅力には触れておかなければならない。この映画の不潔さは――宗教的な背徳性は、もの云わぬ人妻とゆきづりの男の超心理的な交感能力にある。下階のカフェで起きた殺人劇から、金曜日の寝苦しい晩餐会の夜までの僅か一週間の出来事を、肉体を遊離した魂の浮遊感を映画は美的に、しかもおぞましく描き出している。二人の交感を助けるのは潮風と咽るような庭花の匂いである。匂いの同一性を媒介に、遊離した魂同士が睦び逢う姿は、無神論的な世界の極北を示している。そのおぞましさき悪意は、黒ミサのグロテスクを思い起こさせる。
 ここから自然に導かれるのは、デバレード家の晩餐会は最後の晩餐のパロディであると云う点だろう。次々に食卓に運び込まれる過剰な料理の数々、吐き気をもららすほどのレシピにアンヌ・デバレードは思わず顔をしかめる。それは犠牲者の肉体を貪り食うと云う野蛮な現代の儀式を連想させるからにほかならない。そのとき館の内と外と云う場所を隔てた二人の脳裏に、二千年前のあの出来事が、断片的にでも去来することはなかっただろうか。殉教者とは誰か?裏切り者とは誰なのか?愛の殉教劇が未遂に終わったとき、唯一の生きがいであった子供の養育権を奪われ、地方都市の名士の夫人としての外見すら奪われた時、残された道が狂気の世界にしか通じていないことは映画を見ても良く分かる。しかし映画の即物的な表現は、狂気の世界を通じての聖性の回復と云う事態には無関心であるかに見える。

 この問題を自覚的に問いたいならば、――例えば、わが国の作家、高橋たか子などを読んでみるならば、読み手の問題意識に応じて何らかの示唆を受けることも可能かもしれない。