アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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遠藤周作の『深い河』など アリアドネ・アーカイブスより

遠藤周作の『深い河』など
2013-08-14 17:46:44
テーマ:文学と思想

・ 遠藤周作の『深い河』などを久し振りに読み返したが、一応、最晩年に近い段階で書かれたこの小説は、遠藤の文学の総決算と云うには、あまりに限定的である、と云う気がする。ある意味では、出来があまり良くない作品には作者の意図が時に鮮明に顕れることを考えればこの書を論じることの意味なしとも云えない。

 『深い河』は妻を亡くした喪失感から脱却できない夫、第二次大戦時の戦争体験から脱却できない男、そして『テレーズ・デスケルー』問題から脱却できない元女子大生――いまは中年の小母さんの物語である。この主要三人の登場人物が接触するのは、たまたまインドの聖地をめぐるツアーに参加したと云うだけである。

 遠藤がこの小説で力説しているのは、この世での人が生きる条件、と云う点である。生きるための条件と云っても対自的な深められた実存と云う意味にまで自覚化されたものではない。妻を亡くした夫は永遠に続くと思われたこの世の秩序の喪失と云う事態に狼狽し、死者の輪廻を期待してインドの聖地のツアーに参加する。もう一人の、戦争体験から脱却できない男が見舞われた状況は、記憶の固定化、と云う事態である。過去の実存の条件に拘ることが倒錯した形で生きがいになると云う状況であり、その分だけ現実に無関心になると云う特徴がある。
 
 さて、こうした事態を遠藤文学の本質として首肯するならば、遠藤が長年月に渡って主導した日本的なキリスト教、あるいはキリスト教の日本化と云う事態も割引して考えざるをえなくないような気持になる。これはもしかしたら二千数百年の以上も前のモーゼの時代にアロンが突き付けた偶像崇拝をめぐる諸問題、それでも民衆を愛するか?と云う問いと同質のものではないのか?キリスト教徒ならずとも過去の教理や文献を如何に踏まえているかを聴きたいところだけれども、博学な遠藤のことだから他の作品に書いてあるのだろう。

 物語の中枢をなす、元女子大生の小母さんの物語は、学生時代に散々バカにした神学生の初さ、純真さに、あの代表作『沈黙』の力弱き神性を見出すと云う、遠藤文学の固有な、常套的な経緯を見出すと云うものである。
 あろうことかその軟弱な留学性はフランスの修道院で修業し、その後遠藤と同一の問題意識――従来の範疇を超えたキリスト教理解――を抱いて、いまはインドのベナレス近くで、宗派を問わず死者を弔うと云う事業に奉仕していると云う設定である。西洋的理解の形のキリスト教を超えんとする遠藤の問題意識はその意図や壮大であり、その限りでは傾聴に値するものであろう。

 しかし、テレーズ・デスケルーを見舞った存在論的な不全性、凡庸なるものへの嫌悪感は遠藤が描いたように容易に癒されるものであろうか。

 妻を亡くした夫のこの世の秩序への未練は偶像崇拝――動物神や可視化された形での象徴的な形あるものへ礼拝を捧げることのみを偶像崇拝とは考えていない――の問題であるらしいことはキリスト教徒でない人間にも解る事態であるし、戦時体験への固着は、むしろ戦時体験と同質のものを戦後史の過程や戦後と云う世相の中にどのように自らの体験を主体的に見たか、と云う視点がなければ不毛である。

過去が「過去」として完結するのは、対象が 明瞭な輪郭を持って映じたときを境として生じる、つまり過去が明瞭な映像として完結するためには過去が経験としては死せるものとなることが条件となる。一口に過去の忘却とは言っても、それが時間の腐食作用に晒されて磨滅する場合と、もう一つは過去の明瞭化、過去が死物となることで獲得する映像としての鮮明化と云う、二通りの事態がある。
過去が死んだものとなると云う事態は、記憶の不鮮明化――過去が曖昧化し朦朧化することによっても生じるし、過去の鮮明化――過去が過去性を失って事物として鮮明化する事態に於いても、二通りに於いて生じる。後者を偶像崇拝の問題であると思うのだが、遠藤の留学経験はプルーストの時の遠近法などからは学ばなかったのだろうか。

 キリスト教の内部の問題の詳細は分からないけれども、単に思い付きを云えば、遠藤周作はアロン的であり、高橋たか子はモーゼ的であるように思われる。