アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『晩春』――小津安二郎の紀子三部作その1 アリアドネ・アーカイブスより

『晩春』――小津安二郎の紀子三部作その1
2013-08-15 20:40:48
テーマ:映画と演劇

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・ もはや語り尽くされた観のある、小津の諸作群ですから、今まで書かれなかったようなこと、話題にならなかったようなことを中心に、だらだらと書いてみます。

 小津調と云うか彼自身の文体のテンポを確立したと云う意味では『晩春』は象徴的な位置にある作品です。
 『晩春』は、婚期に遅れた娘の結婚に至るまでを、父と娘の関係を中心において描かれた作品で、その後の「小津調」の原型となった作品です。原型となった、と云う意味では、小津がこの作品を「意識的に作った」と云う意味で、日本の伝統的な生活風習や古典芸能のさわりが特徴的に引用され、最後は戦災によっても滅びる事のなかった京都の自然に癒された日本人の営みを大写しに移してエンドマークとなります。
 つまりこの作品は、それが観客に与える効果をかなり冷静に、「計算高く」描いた作品であったと云うことです。日本人の「美しさと哀しみ」とを、意識的に取り入れたと云う意味でもう一人の文学界の巨匠、川端康成にあらゆる意味で似ており、外見的な類似性を獲得していますが、人間に対する本質的な冷淡さは川端にはないものですし、小津の魅力となっています。

 『晩春』の娘がなぜ結婚しないのかについては、諸説があると思いますが、舞台装置に関して言うならば、インテリアに仏像や仏画が夥しいと云って良いほどにも配置されている点に注目していただきたいのです。この映画は見て行くと次第に分かって来ることは、母親を亡くした家庭であること、(娘の敬愛した兄は戦死していると云うこと)です。ここから父と娘による異常に親和性の高い家族が生まれることは容易に洞察することが出来るのですが、そうしたフロイト的な解釈以前に、私は基本的にこの過程が戦没者の家庭であること、しかもあろうことか死者の遺影を飾らない家庭であることを、淡々として平和な小津調の映像の流れの背後に読み取っていただきたいと思うのです。
※(    )内は、『麦秋』の内容と混線した筆者の思い違いです。早速ながらの御指摘、ありがとうございます。

 戦没者の家庭であるにもかかわらず死者の遺影がないこと、話題として語られることが極めて少ないこと、秘匿されたタブーとまでは云わないけれども、戦争について語らないと云うことに於いてこの映画は、より過激に死者たちの映画であることを語っているのです。端的に云えば、娘が結婚できないのは、この家が死者の家であり、死者を弔う娘が巫女であるからにほかならないと思うのです。娘が死の家の巫女であることは、次回作『麦秋』の舞台装置との違いをみればより納得されるのではないかと思われるのです。なぜなら『麦秋』とは、死の家の巫女が如何にして愛の女神に生まれ変わるのかを描いた作品であると思うからです。死の巫女が愛の女神に生まれ変わるとは、戦後の日本人が死の云呪縛から脱却しつつあった世相と相関関係にあると思うのです。この問題は、また『麦秋』のところで取り上げたいと思います。

 この映画が描いている問題のもう一つは、死の家の巫女が空席となった後の残された家族の問題です。この映画では父娘の家庭ですから端的に父親固有の問題であるように特徴的に限定されて描かれることになりますが、復興を遂げつつある戦後日本の社会の中で切り捨てられるもの、忘却の世界の淵に放擲されて行く、もの言わぬものたちの物語が総括的な表現を観るのは、あの『東京物語』なのです。
 『晩春』と云う作品が意識的、計算された意図的な作品であるとい云う意味は、この作品が大きな幹のように、『麦秋』的世界と『東京物語』に分岐していく別れ道の道標のような位置にあるからなのです。

 最後に、専門家も含めた大多数の小津愛好家が誤解している、エンディングの場面について言及しておきましょう。
 小津の作品の多くは、婚期の遅れた娘の婚姻話を繰り返し語りました。これには二つのパターンがあって、一つは婚約者が画像として出てくる場合とそうでない場合です。折角の婚姻話を語りながら未来のフィアンセを一度も映画に登場させない演出と云うのは如何にも巧みで、反面観客をがっかりさせるであろうとは思うのですが、この婚約劇の主役を描かないと云う演出上の意味を良く考えていただきたいのです。谷崎の『細雪』の場合でもそうですが、婚約者の映像を出さないと云うことは、この婚約が必ずしも幸せなものとはならないと云うことを暗示している、と見た方が自然なのです。
 小津のリアリズムはほのぼのとしたヒューマニズムを期待していたら大間違いで、時に辛辣です。婚期が遅れた娘の縁談を亡き母親に代わって心配している叔母が鶴ヶ岡八幡の境内で拾った財布の幸運と一緒くたにして語る場面がありますが、多くの熱烈な小津ファンの方々の顰蹙を買いそうなので控えめに云いますが、娘の婚約は拾った財布と同じようなものだった、と小津は云わんばかりなのです。

 こうした小津の細かい演出を読み取れないから、小津の研究家も含めたファンの多くが、最後の父親がリンゴの皮を剥き、最後に眠るようにがっくりと項垂れる場面の意味を誤解してしまうのです。――曰く、この場面は、娘を嫁がせた父親の孤独さを描いた場面だと云うのですね。
 ここはこのように観るべきなのです、――娘を嫁にやった夜と云うものは誰しも一抹の寂しさの感情を味わうのは自然でしょう。そうした普通の父親像の感情をベースに、父親は多難であるかもしれない娘の結婚生活の今後を予感してリンゴの皮を剥くのです。リンゴの皮を剥く手付きの拙さは今後の父親の将来を暗示しています。そしてくるくると回りながら剥かれて行くリンゴの皮の輪が途切れて、途中でふっつりと切れる場面をカメラは正確に映し出させます。それは二人の今後を暗示するかのようにも見える象徴的なシーンですが、ここで父親はリンゴを剥くことを諦めてがっくりと項垂れるシーンを映して、多様な解釈を許しながらこの映画は終わっているのです。

 実際にこのあと娘が幸福な家庭を気づき得ることは十分可能性としてはあり得ることでしょう。にも関わらず結婚式が退けたあとのあの晩、父親が自身の個人的な事情や自己憐憫の感情に捕らわれた、などと云うと男性社会向きの解釈は不自然なのです。自己憐憫ではなく、他なるものとなりつつある娘の前途を予感して心の中で泣いたのです。観客としては、父親の老婆心が裏切られるのを祈願するばかりです。
 古いタイプの日本人は自分のためには泣かないものだ、と思うのです。