アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『東京物語』――小津安二郎の紀子三部作・その3 アリアドネ・アーカイブスより

東京物語』――小津安二郎の紀子三部作・その3
2013-08-16 18:57:15
テーマ:映画と演劇

・ 六十九回目の終戦後の夏に、もの言わぬ慰霊碑に捧げる。

 

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・ 『東京物語』は一般には言及されることがないが、『リア王』の日本版である。四人の子供たちが居て、一人は戦争で亡くなったほかは、今は、戦後の復興期の社会の中で自分たちの生きる礎を築くことに忙しい。久し振りに東京を訪れた両親は、不親切と云うのではないけれども、兄妹の間をたらいまわしにされて、血のつながりのないものの方が思いやりを持って接してくれたと云う感慨を持って故郷に帰る。悲惨なことには、二人の失意に追い打ちをかけるかのように、老母は帰省の途中の大阪で病を得て入院し、帰宅して落ち着いて療養をする暇もなく、亡くなってしまう。

 二十代の頃初めて見てから半世紀近くたってもなお、この作品に対する印象は変わらない。歳を重ねて、実際にこの映画の登場人物たちの実年齢を重ねて経験しながらも、それで理解がいっそう深くなったかと云うとそうでもなくて、若いころの印象と殆ど変らない、実人生の経験が殆ど映画の鑑賞に影響を及ぼさないと云う意味では、年齢や性別に拘らない普遍性を秘めた映画なのである。
 フランスのある批評家が、映画のタイトルスクリーンに小津の名前を認めると感情が高ぶって涙が溢れると書いているが、まさしくその通り、小津の『東京物語』は、ちょうどベートーヴェンの第9が固有に持つような意味での、特別の作品なのである。

 今回この作品を見直して感じたのは、東山千栄子の存在感であった。勿論、杉村春子の名演技は何時もながら、笠智衆らを中心に築かれた物語的世界の静的な構造に対して、動的に対応すると云う意味で物語的宇宙の一角を梃子の原理のように支えているとは云えるのだが、笠智のとぼけた軽身に対して動かざる定点のように、より大きな意味で物語的世界を支えているのである。

 『麦秋』で死の家の巫女から脱却したはずの原節子は、ここでは戦争未亡人として再び死の祭壇を斎つく巫女として再登場してくる。実際にこの映画で演じられた美しい画面の幾つかは、彼女の貧しいワンルームの中である。あるいは、貧しく侘しげな風景であるがゆえに、いっそう、この世離れした未亡人の美しさも際立つのだろうか。
 広い東京で行き場所を失った老夫婦は彼女の部屋のお世話になる。一度目は、戦死した二男の未亡人が勤めの休暇を取って東京を案内する場面の最後に出て来る。戦争未亡人は別れ難く、老夫婦を狭い自分の部屋に案内する。隣家で日本酒を借りて父親に御馳走する。台所も支度をする暇もないので、店屋物をとって丼を御馳走する。
 二度目は、箱根の宿を切り上げた老夫婦が子供たちの家に居づらく、父親の方は旧友を頼って飲み屋へ、母親の方だけ未亡人の家に行く。四方山話の後に床を取って母親は死んだ二男の布団に寝せて貰う。その翌日、未亡人は恥ずかしそうに僅かばかりのお小遣いを母親に受けとってもらう。『東京物語』は身内よりも血の繋がりのない他人の方が優しくしてくれたと云う物語ではない。戦没者の意思を、死に逝くものの情感を籠めて、過去の死者と未来の死者を霊感を持って繋ぐ物語なのである。戦没者の影を見ないならば、戦後の復興期の社会に於いて切り捨てられるもの、淘汰されるものの痛みを共感できないならば、『東京物語』を鑑賞したとは云えない。

 死者への慰霊とは、憐れみを請うことによってだけでは得られない。弔うものにもまた威厳が必要なのである。憐れみや悲哀を演ずることに於いては笠智は卓越していたけれども、死者を弔う威厳と云うことになると、死者と釣り合うだけの重みが必要になる。そうなると、どっしりと気高い姿勢で正座する母親を演じた東山千栄子が適役となる。それで、死の巫女・原節子の、圧倒的な輝きを向こうに廻しての演技と云うことになれば、東山を於いて他にはいなかったのである。
 それでこの映画の最も美しい会話は、原節子と東山の間で演じられることになったのである。死を間近に控えた「末期の目」の中にその姿を捉えて彼女は云う、――ありがとうよ、紀さんよ!と。彼女の視線は既にこの世のものではない。この世ならざるものを捉えるためにはこの世にあらざる者にならなければならない。女神を捉えるとは、そう云う意味なのである。彼女の視線のみが、戦後の喧騒と芥のような猥雑な東京と云う世俗的大都会の中に比類なき女神の存在を、不可視の対象として認めえたのである。