アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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宗教と宗教性 アリアドネ・アーカイブスより

宗教と宗教性
2013-08-21 00:17:09
テーマ:宗教と哲学

 


・ 宗教と宗教性とは異なる。もし神と呼ばれる存在が人の形をして具象として顕わされることがなかったならば、信者になっていたかもしれない、と思わせるものがある。キリスト教では偶像崇拝を禁じるけれども、それと妥協することの多いのもキリスト教である。今日では偶像崇拝をモーゼの時代のように貴金属を鋳つぶして造形した黄金の子牛のように信じる者はいないけれども、例えば目的と手段、神と人間と云うような二元論的な構図の外側に定立するような思考の全般を含むものであると云うような厳格な定義をするならば、大半の宗教が偶像崇拝を免れえない、と云う事にもなろう。それで最近は、例えばわが国の遠藤周作などのように、愛を持って信仰を語ろうとする傾向が多い。

 ただ、愛もまた偶像崇拝の強力な立役者の一人であることは明らかだろう。この点については東西に格差はなく、思考の感情を説明するのに多く、神への愛を人間の愛と類比的に語って来た。ただ西洋では、愛をエロスとしての愛とアガペーとしての愛に区分することで、信仰を愛欲の強力な呪縛力から堅固に守り闘争としてきたかの如くである。神学と云うものの偉大さである。
 アガペーとしての愛とは、対象としての対象性なき愛である、――この場合、唯一の対象である神を覗いて、と大急ぎで補注しなければならない。他方エロスとしての愛とは、普通世俗の愛に留まるものと通常は理解されているようだ。

 この間の事情を、有名な『アベラールとエロイーズ』を例にとれば、アラベールの愛がアガペーの愛である。アベラールは当時のカソリック神学の名高い碩学として、宗教的高みからエロイーズを教え諭そうとしたようだ。なぜならアベラールの背後には神がいるのだから――アベラールは自らの去勢と云う被虐的体験ですら神への恩寵と理解していた。
 ところが面白いことには、エロイーズはアベラールの欺瞞を見抜き、妻であるよりは娼婦でありたいなどと喚きながら、世俗の愛に留まろうとするのである。この物語の経緯を綴る往復書簡を最後まで読んでも、エロイーズが説得を受けたと云う感じがしないのは、エロイーズが単なる尼僧なのではなく、古代的な文明の最後の残照に生きる、当代の高邁な神学者を向こうに廻しての、いっぱしの思弁に通じた女流哲学者であったからだ。

 キリスト教の言語や論理に必ずしも熟達していないので書き難いのだが、エロイーズが言わんとしたことは、論理的言説としてのアガペーとエロスは学説的教養としては区別可能であるけれども、本来エロスと云うのはエロイーズの古典古代的な教養をもってすれば、単なる思惟的な論理的言説や思考の静態性を超えた、五感的な受動的能動あるいは能動的受容の応力に他ならなかったのではなかろうか。つまり言語が言説的言語や論理に限定される前のソクラテス以前の残照の中に彼女が生きていた最期の証人であったのかもしれない。
 
 例えば女性や母親の愛の受容能力などをみればその一端は理解されよう。
 物事を理性として、言語として、単-論理的に捉える思考法に対して、教義の言語活動を超えた五感的交感能力としての超言語としての愛を、例えばエロスとしての愛として理解していたのではなかろうか。
 もともとそうした愛の理解の仕方はアベラールの学説の中にあったものだったようで、彼女の口ぶりからすれば、かってアベラールに学んだ通りに生きる自分を批判する資格などあるのだろうか、と云うものだったと思う。西洋のキリスト教的な精神史に於いては、後にみるスコラ的な理解の過程で、かかる愛の包括的な理解の仕方は失われたて行ったのではなかろうか。どの段階からと具体的に言うことはできないけれども、ソクラテスからイエス・キリストの時代にかけてのことではなかったか、と理解している。イエスの物語は、ソクラテスの事跡の上に上書きされている。

 遠藤周作はエッセー『私の愛した小説』などの中で、「ぽるとがるぶみ」や暮れるヴォ―のベルナールの説教集などを引いて、盛んに宗教と愛の類比について語っている。キリスト教が思考の感情を説明するのに、愛を持ってすると云うのは何の不思議もないが、神への崇拝、神への対象的愛を超えた愛の偶像崇拝的な契機をこえたものはキリスト教にはないのであろうか。

 グレアム・グリーンの『情事の終わり』は、戦時中の空襲で瓦礫の下敷きになった愛人の命を気遣って、神への愛と引き換えに恋人の命を救ってほしいと願う人妻の話である。恋人の命を救ってくれるならば、人としての愛の一切を諦めます、と。しかし人妻は、キリスト教云うところのアガペーとしての愛とエロスとしての愛に挟まれて死んでしまう。有名なジッドの『狭き門』は、少年の永遠の少年たらんとするアガペーとしての愛が人間としての愛を無残にも引き裂く話である。

 宗教的世界では、神はあらゆるものの根源であるから、神そのものを偶像崇拝と云うことはできない。神の臨在は宇宙の出現よりは少し早いからである。
 しかし、偶像崇拝を、あらゆる人間的な行為や所作の外側に定立することをもって定義するならば、神を偶像として否定するのも論理としては不自然ではない。
 事実、旧約聖書の神は、あらゆるものの自己原因としての神、天地創造としての神なのであるが、人間を創造しての後は、人間的な思惟に翻弄されて自身の創造的な行為を時に後悔して、幾度か仕切り直しをするような神である。

 創造神としての神の悲劇は幾度かあって、ノアの箱舟とかソドムとゴモラとかと云う神話的な事跡は別として、一度目はモーゼとアロンの時代に、二度目はバビロンの捕囚後のサウル-ダヴィデの時代にあるように感じられる。
 前者は、既に書いたように偶像崇拝をめぐる民族の存亡を賭けた苛烈な議論が炸裂するのであり、後者は神を除いて人の上に人を頂くことはないと云うイスラエル民族の特性の放棄を、神の譲歩として受けとめる話である。

 旧約の神とは、イエスが信じたような万能の神ではなく、人間的な恣意に翻弄される、妥協と諦念に貫かれた年老いた蒼ざめた神であるように思われる。
 イエスはキリストとなることで、人類を救う事だけでなく、年老いた神をも救う必要があったのではなかったか。

 モーリアックに『テレーズ・デスケルー』と云う小説があるが、翻訳した遠藤周作は後にモーリアックは罪と悪とを同一視したと批判している。罪と悪とを彼がどう使い分けているのかと云えば、罪とは、例えばテレーズが夫に対して殺害の意思を秘めていたような行為である。罪と許しは類比関係にあり、罪を通じての救済と云う定式が可能であったと彼は云う。他方悪とは、テレーズが自分の手前勝手な「夫の許し」と云う救済劇が実現不可能と云うことを悟った後の、あらゆることへの倦み倦怠が支配する郷里での孤独な生活を指す。遠藤はフロイドのタナトス論を援用しながら、生きることそのものへの理由なき呪いを、「悪」と名付けている。
 悪は、容易に救済の対象とはならないと、彼は云うのである。遠藤は『侍』を書く頃から「X」を求めることに確信を持てなくなった、と語る。「テレーズは少し酒を飲み、煙草を沢山ふかした。満ちたりた女のように一人で笑い、念入りに頬紅を付け、口紅をひき、それから道に出て気のむくまま歩きだした。」どこへ?背徳(悪)に向かって!

 しかし、罪が許しと類比的であるとするならば、悪もまた聖なるものと類比的な構造を持つのではないのか。例えば遠藤の心情的な弟子とされる高橋たか子の世界は、悪が持つ類比的構造を元に聖なるものの世界に近づこうとする絶望的な努力である。『誘惑者』では自らが誘惑者の役割を演じていた筈の主人公が最後は懇願されて自殺願望者の背中を三原山の河口に向けて押し出し、犯罪者であることを承認する物語である。
 『空の果てまで』は聖女型の女性に徹底的に抗い、自らのまわりの人間を悉く不幸にする主人公が、世俗的規範で罰則されることのない長い時間を生きて最後に聖なるものの可能性に至るお話しである。
 『怒りの子』は平凡な専門学校に通う女の子が閉ざされた人間関係が生む狂気の世界を突破するために、殺人を犯す物語である。悪を通じて聖なるものに至る旅路が容易ならざるものであったことは、たか子が最後まで狂気と正気の間の振幅の途上で、おそらく討ち死に近い死に方を遂げた未踏の可能性について、ある種の感慨に近い感情を持ったからである。彼女は死の間際に於いても、なお、悪態を付くことを忘れなかったか。

 遠藤周作高橋たか子の冥福を祈る!