アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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成瀬巳喜男の『乱れる』(1964年)アリアドネ・アーカイブスより

成瀬巳喜男『乱れる』(1964年)
2013-08-24 21:47:56
テーマ:映画と演劇

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・ 物語は戦後の復興の影がすっかり消えかかる頃、地方都市にも新しい消費時代の兆候が――スーパーマーケットが進出して来る60年代の後半の物語である。
 戦災で焼けた酒屋を切り盛りしている戦災未亡人がいて、亡くなった長男の弟の方は店を手伝うでもなく、折角、大学を出ていながら会社務めも長続きせず、毎日麻雀、パチンコ、酒場を飲み歩いている。18年間に渡って店を切り盛りしてきた戦災未亡人の嫁と義弟を軸として物語は展開する。
 スーパーの進出は、伝統的な高利の商いを次第に不可能にしていく。このままでは持たないのだから、別に資本を入れてスーパーに鞍替えしようと云う案が持ち上がり、嫁いだ長女や次女も乗り気である。実はこの話の火付け役は、遊んではいても時代の趨勢を見るに鈍感ではなかった当の二男の言いだしたことなのだが、これが意外にも、一家にとっては所詮他人の未亡人の座を不安定なものにし、邪魔者化するような配置になってしまう。所詮は一家にとって他人でしかない未亡人の処遇をめぐって。
 話が複雑になるのは、実は二男のノンシャランな生き方には理由があって、ある日だらしない生活態度を問い詰められた二男は、実は義姉を慕っていたことを無邪気にも告白する。この日を境に、後に未亡人の嫁の回想するところでは、店にいても落ち着かず、無意識のうちに視線が義弟の影を追っていることに気づいて、これが苦しい気持にさせる。
 結局、このままではいけないと、未亡人の嫁の提案で家族会議のようなものを開いて、店を義弟に譲り、自分は実家の東北に帰るのだと宣言する。実は自分にも好きな人がいるのだからと嫁は云うのだが、勿論嘘である。嫁の宣言を聴いて人の良い老母はおろおろするばかり、娘たちは関わり合うのを嫌って帰ってしまう。嫁が好きな人と一緒になるのは良いことだと他人事のように云い置いて。
 義弟は、未亡人の嫁を追い出すような形になったことに対して、心苦しさを吐露しし母に送別を依頼をする。そしてプラットフォームでの嫁と老母との別れ。

 映画はここで終わりかと思っていたら、このあと東京の上野を経て庄内に至る車内の描写が続く。新幹線や航空機が普及するまではお馴染みの昼夜を分かたず走る夜行列車の風景。ここまで昭和30年代の車内の風景を美しく描いた映画を知らない。列車に乗るなり義弟の嬉しそうにサンドウィッチや弁当、立ち食いそばを楽しげに食べること!まるで彼としてはピクニック気分なのである。義弟の秘められた決意はこのあと映画の最後で明らかにされるのだが、とりわけ美しいのは車窓で寝入る義弟の寝顔を見いる場面である。嫁の頬を意識せぬままに涙が伝う。ふと目を覚ました義弟はその理由を尋ねる。人生の経験を振り経た嫁と義弟の感情の擦れ違いがとても美しい。
 嫁は理由を聴かれて、寝顔を見ながら、あなたのことが可哀そうで、と云うのだが、観客の方もまた可哀そうなのは嫁の方ではないかと一時は思うのだが、実は理由もなく可哀そうに見えるのは愛しているからなのである。戦後18年間を生活者として生きて来て、いま初めて自分が生身の人間であることを思い出した人間の懐かしいような想いと、人生を歩みだしたばかりの義弟の無邪気さがとてもいい。人生を程知った女と男の純粋果敢な愛の模様を描いて、まるでここはフランス映画の名シーンでも見るかのようである。
 嫁の方も別れ難く予定を変更し、庄内の手前の温泉の下車駅で降りてしまうのはなぜだったか。「わたしだって、女よ!」 向かうのは銀山温泉。ここで最後の最後のドラマが演じられる。田舎町に帰ることを説得する義姉と抗う義弟。無邪気に愛に向かって猛進する男と、それは出来ないと咽びなく女を残して、たまらずに義弟は宿を飛び出てしまう。鄙びた居酒屋で酔いつぶれて、そして宿に最期の電話を入れる、この場面も実によい。
 二人が田舎のあの町で、つまりかって出来すぎた未亡人とノンシャランの義弟と云う役割を演じていた時代に繰り返された定型的なパターンをいま一度再現する。それはついこの間の事だったのに、遠い昔の過去のように観客の目には思い出される。まだ二人が無邪気であったころ、義弟はこうして義姉に終始甘えたのではなかったか。そしてその最期の夜に、甘えたついでに事故か自殺か知らないが前途を儚んだのか、義弟は崖から転落して死んでしまう。
 最期は、荷車に載せて菰を掛けられた義弟の遺体に追いすがり、追いつけぬ義姉の表情を描いて終わりとなる。悲恋の道行きの哀切を描いた場面は、まるでイタリア映画へのオマージュのようである。

 成瀬巳喜男は東西の映画を咀嚼し、単純な疑似近親相姦めいたラブロマンスを、戦後の流通革命の時代に重ねて、新しい時代の息吹に添えない人々のドラマとして描いている。時代の相を描くことに於いて悲恋物語を自然なものにしている。最期の義弟の死と云う結末が唐突であると云う意見もあるかもしれないが、戦後が未だ揺籃期の記憶を残しつつ、そして大きく変換を遂げつつあった時代の、あの時代の終わりに手向けられた挽歌であれば、こうした結末も不自然とばかりは云えないだろう。女はやはり純粋に生きるとは言っても、世間体とか慣習とかから自由ではない。男と女の純粋さの違いと云うものを、唐突なエンディングは描いていて、男の純情さを描くためには、やはりこう云う終わり方が良かったのだろうと思う。

 成瀬巳喜男、別名「やるせなきお・・・」。思想的に深いところはないのに、映像から受けるある懐かしい感じは何に由来するのだろうか。主演を演じた高嶺秀子や加山雄三も良いのだろうけれども、脇役の女優陣も良い。松山善三の脚本も良いのだろう。懐かしさの原因は、地方都市へのスーパーの進出とか、ローカル電車の風景とかかって見知っていた現実を、リアルな既視感のもとに再現し、失われた我々の時代をいま一度生き直しているからなのだ。車窓でつまむサンドウィッチや駅弁の折詰から漂う甘酸っぱい木質の香り、お茶を飲んで咀嚼したものを流し込む頃は次第に車窓に流れる旅情が身に付いてくる。そして発車のベルの慌ただしさに急かせるように食べた立ち食い蕎麦の、丼を持ったあの味覚も!