アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『乱れ雲』(1967年)――成瀬美学の終焉 アリアドネ・アーカイブスより

乱れ雲』(1967年)――成瀬美学の終焉
2013-09-01 22:10:38
テーマ:映画と演劇

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・ 成瀬巳喜男のロマンス劇は、単なるメロドラマに終わらず時代性を微妙にダブらせる。『乱れる』では、戦後の消費文化の転換期におけるスーパーマーケットの地方進出が背景として重要な意味を持っていた。ヒロインの愛をめぐる物語の頼りなさと、敗戦から復興期に至る間の過渡期とも云える朝鮮戦争をはさんだ十年間ほどの特異な時代の儚さが重ねられて描かれ、それが登場人物たちに投げかける悲劇的な翳りを説得性のあるものにしていた。
 本映画『乱れ雲』においては、背景に官庁と民間企業の癒着と云う日本型の戦後を支えた人的な関係を背景にして、交通事故を契機に一変した通産省に勤める新進官僚の夫婦と、前途ある若き商社マンを主要な配役としている。
 外国転勤を控えて箱根に行った官僚を不慮の事故で轢き殺してしまった商社マンは、仕事の繋がり上、二度と日の目の見ない青森支店に転勤を命じられてしまう。他方皮肉なことに、単なるプライヴェートな交通事故として処理された官僚の妻は遺族年金も少なく、毎月加害者の商社マンが償いのために送金して来る一万五千円を入れてもアパートを借りて生活するのは大変で、不動産屋の事務、喫茶店の会計係など職を転々とするも、最後には生活の術を失ってしまう。加害者が毎月送金して来る見舞金にしても、犯罪性が全くなくしかも偶然的な事故であることから無罪とされ、従って補償の法的な義務も発生しないところを、人間的な倫理の問題として送金をし続けているにすぎない。エリート官僚の妻とは云っても、主人に死なれてみれば経済的な基盤は極めて脆弱であった、と云うことだろうか。
 こうして、交通事故を契機に加害者、被害者ともども零落の道を歩むかに見える。商社マンは商社マンで東北の地にそれなりの活躍の場を見つけたとも云える。商社だから外国からの貴賓客を観光地に案内する風景も描かれるし、土地柄営林署の役人との気脈を通じた宴会の風景も描かれる。ドラマが動き始めるのは東京で生活できなくなった官僚の妻が落ち着くところを失って青森の実家の旅館を頼って帰って来たところから始まる。官僚の妻を司葉子、商社マンを加山雄三が演じている。

 事故の記憶を何とか忘れようとする官僚の妻、そして良心の呵責から逃れられない商社マン、この二人が青森の最寄りの地で出会う。反発し、口を聞こうともしない未亡人も、加害者の母の訪問を機会に彼の人となりを知るにつけて閉ざされた心も次第に解けて来る。夫を殺した男であることを憎みながら、十和田湖畔の夕立に体調子崩した男を一夜献身的な介護を続けるうちに憎しみは次第に愛情へと変化する。転勤を命じられる前に一度だけ未亡人の案内で十和田湖を案内してもらいたいと云う願いが受け入れられ、その日偶然にも青森を立つバスに乗り合わせた車内風景の心浮き立つ美しさは『乱れる』にも共通する場面である。
 こうして二人は、宿命的に愛憎のドラマを感ぜざるを得ない加害者と被害者の関係でありながら愛の告白が、それが二度三度と青年の無償な感情の吐露に絆されて、遂にはそれを受け入れる旅の一夜を迎えることになる。男をそこまで果敢な行動に駆り立てたのは、ラホールと云うパキスタンの、当時は危険な地域への転勤が命ぜられたからである、と男は説明する。
 しかし二人の愛の仕上げになる筈であった旅の宿の途中で目にした交通事故の現場、そして被害者を一時待機させていたのが同じ旅館であったがゆえに、けたたましいサイレンを鳴らして乗り込んできた救急車の姿に官僚の妻は釘づけになり、男への愛は事故の記憶によって無残に引き裂かれる。
 成瀬の映画がいいのはここからである。男ももはや未練を語りはしない。明日は一人さびしく海外の危険地域へと旅立つだけなのである。最期の旅の夜が余りにもしんみりとしてしまったので男はビール掲げて「今日は何のお祝いにしましょうか」と淋しく云う。それから思い諦めて、これを謳ったものは幸せになると云う地域の伝聞を語って津軽節を吟ずるように謳う。未亡人の故郷で国褒めの歌を謳う、分かれていく恋人に捧げる最高の賛歌ですね。人と人との敬意が感じられて実によい。成瀬は言葉で言い表し得ないことを歌に託して表現している。盛り上がりをみせた映画はここで終わりで、このあと車窓に寄りかかる男の姿と十和田湖の船着き場を彷徨う未亡人の後ろ姿を等分に短いショットに写して、無言の語りのうちに「終わり」となる。あっけない幕切れと云うか、――ある意味ではこの終わり方、そっけないけれども、余韻を残した終わり方である。たぶん、観客は新婚生活を送る二人の姿を見たいとは望まなかっただろう。
 余韻嫋嫋とした成瀬巳喜男のこの世への告別ともなった最後のシーンであったことを考えると感慨深い。このあと二人がどうなったか、それを考えるほど野暮なことはないだろう。倫理観の厳しさゆえに二人が愛を断念したことを知れば十分なのである。

 成瀬巳喜男は『女が階段を上がるとき』などのようなリアリズムも上手いのだが、晩年は『乱れる』・『乱れ雲』のような極めて感傷的なロマンス劇を好んで取り上げた。この二作は、成瀬の晩年近くにあると云うだけでなく、ドラマの構成も実によく似ている。ラブロマンスが起こる恋の母体としては未亡人の経済的に不安的な状態がまずある。ヒーローの加山雄三よりも年上の女優を配置して悲恋性に必然性を持たせている。特に成年男子の純情さ、無垢さを描かせたら成瀬の右に出るものはいないだろうと思わせるものがある。こうした難しい青年の役柄を成瀬は加山の中から秘められた才能として見出している。実はこの二作を見るまでに、わたしは加山がこんなに良い俳優だとは気が付かないできた。そして清く正しく、母のように姉のように生きる女優陣も素晴らしい。
 女たちは、猪突猛進型の男たちに比べて、世間を知りそれなりの遠慮と配慮を持って生きる。それが世間への妥協とは思われないのは、彼女たちが愛よりも恋よりも清冽なるある種の感情に自らを捧げる生き方をしたからである。