アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『尼僧ヨアンナ』とキリスト教 アリアドネ・アーカイブスより

『尼僧ヨアンナ』とキリスト教
2013-09-02 13:46:57
テーマ:映画と演劇


1.組織悪と悪の淵源について

・ それほど良い映画だとは思わないけれどもこの映画を二度見直した。モノクロの強烈なコントラストから来る強烈なイメージは、キリスト教と呼ばれたものの無機性を際立たせているとも云える、素晴らしい映像感受性である。

 見直して感じた一番のことは、尼僧ヨアンナへの尋問の風景である。最初にみたときは、悪魔に魅入られた魔女もどきのおぞましさだけが忍び笑いに籠められていて心凍るような思いだった。
 それが見直すと、――全然違う!、自由への叫びなのである!

 一体、映画の冒頭で司祭を迎える旅籠屋とは何を意味するのか。修道尼院であるから司祭と云えどもそこに寝泊まりすると云う訳にはいかないのだろう。それで前任者の、悪魔憑きとして火刑台に送られたガルニエツ司祭などは壁を通り抜けて尼僧ヨアンナの元へ通ったと云われるほどである。
 映画の冒頭で明らかにされるのは、まずこの不可解な旅籠屋の存在であり、程遠からぬ所に遠望される修道院の建物であり、その間に不気味な黒焦げの姿を晒す立木の存在である。その火刑台の廻りを遊び場として無邪気に走り回る二人の子供の姿、小さな方の女の子のは方はガルニエツとヨアンナの間に設けられた幼子であると云う。かかる映画の語りが始まる前に提示される大道具・小道具の配置の巧みさは、白黒の簡潔な映像とともに監督の力量を感じさせる。

 司祭を迎え入れた旅籠屋の住人の間では、悪魔払いの前任者のガルニエツが火刑台で息絶えるまでの経緯が面白おかしく語られる。その不謹慎さはおぞましいほどで、信心深い幾人かは顔をそむけて席をはずしたほどである。話の中心には何時も、小男の旅籠屋の亭主がいる。彼が何故この不可解にして不愉快な村にいつくようになったかは不明だとされる。不可解なのではなく、そのように村人たちが言うのであるから、何らかの関与があると考えなければならない。
 しかし映画の最後に至っても、彼は尻尾を出さない。象徴的な最後のシーンは、尼僧ヨアンナに取りついた悪魔を自分自身に乗り移らせて、殺人鬼として火刑台への道を歩み始めるスリン神父の自己犠牲的な愛と引き換えに、「聖女」に復帰したヨアンナと、男に騙された言動が不要じみたシスター・マルゴザタの二人が牢屋の格子を隔てて、何ゆえか涙に暮れて抱擁する場面で終わるのであるが、二人を翻弄したのが一方ではキリスト教の論理であり、他方では世俗の色恋の論理であったとすれば、両界に見放された者同士の共感の涙と理解すれば、エスプリが利きすぎるだろうか。つまり宗教界にも世俗にも救いは無かったと云うことである。

 映画の最初に写される、雨風に晒された黒焦げの火刑台の姿はキリスト教の残虐さと云うものへの連想を誘う。薪に火が付くと、直ぐに司祭の黒い衣服を赤い炎が全身を覆って剥ぎ取ったと云う。生きながらに焼かれた裸体の神父は豚のような喚き声を挙げながら黒焦げの姿になったのだろう。雨風が黒焦げの遺体に叩きつけ、何時しか侵食され、立木だけを残して崩落したのであろうか。
 監督カヴァレロヴィッチが映像を通じて明らかにしようとしているのは、異端審問や宗教裁判に固有の残酷さである。それは中世の遠い昔の出来事ではなく、ベルリンの壁の崩壊後明らかにされたように共産主義と云う現代の狂信的な宗教団体の類似性があり、またこれとは比較できないほどに悪質なナチズムによるホロ―コーストの歴史を間近に聴いていた筈である。
 
 ここから分かるのは、宗教裁判のような粛清劇を見せものとして、治安を辛うじて維持している社会の存在であり、旅籠屋の亭主とは宗教的権力と癒着した密告組織の長である、と云うことだろうか。実際に村に好奇心ゆえに立ち寄った色好みの旅人に尼僧の一人を誘惑させて捨てさせるのも彼の仕業である。
 また、本ドラマの重要な場面、ユダヤ教のラビの元に神父を誘い論戦で打ち負かされる姿を事前に予感し、また、尼僧ヨアンナと司祭が牢獄の格子ごとに接吻をする重要な場面を屋根の上から窓越しに目撃するものも彼なのである。
 全ては、心理的に張り巡らせた不可視の、誘導尋問に載せられた上の行動であると云う憶測が濃厚に浮かび上がって来るのである。

 悪魔とは、もしかしたら旅籠屋の小男のこの亭主のことではないのか。
 この映画を見る範囲では、キリスト教とは愛による殺人を是認し、暴力装置を教義に寄って正統化する権力=権威集団である。そしてボリシェヴィズムもナチズムもこれを参考に、一層より精緻に磨き上げたことは明らかだろう。カヴァレロヴィッチが近い過去としてのナチズムの記憶を、現在進行形としてのボリシェヴィズムを念頭に置いていることは明らかである。

 もう随分昔に読んだ児童文学の書に『ザ・ギバー』(伝承する者)と云う本がある。イスラエルキブツのようにあるいはルソー型の共産主義のように、家族制度が極限まで否定され、そこでは養子縁組によって「理想的」な「家族」が組み立てられる。誰もが自分の血縁を知らず、あたかも父母であるかのように、あたかも兄弟姉妹であるかのように「演じる」ことが求められるのである。そこでは「普通であること」が絶対的な規範として聳え立っている。主人公は「立派な」両親や「出来すぎた」兄弟姉妹に囲まれて疑問を持ちながらも分別を持つ青年へと成長する。そして最終的に彼が見出したものは、自分以外の全ての住人が「狂人」であると云う特異な社会だったのである。如何にして彼がその事実に気付いたかと云えば、ある日彼の視野の中で「赤」と云う色が識別され始め、その驚きを通じていままで自分に色彩感が育っていなかったことに気づくのである。感受性の回復は、赤く滲む血の斑点の色彩から始まったのである。主要原色の三要素が戻ると全ての色彩が、五感の全てが戻って来るのである。しかし不幸なことに全感受性が「欠損」として意識された時、それが彼と家族との、ひいては社会との別れとなるのである、と云う哀しい物語である。

 つまり尼僧ヨアンナが直面したのは、自分自身以外は狂人であると云うまれにみる人工的な社会なのであった。それは修道院と云う寓意の元に暗示されたナチズムであり、スターリニズムの存在であった。
 この社会では、社会の秘密を知ったものは、悪魔に憑かれた聖職者か魔女か、自堕落な女として登録されるだろう。彼らは宗教裁判や粛清劇の登場人物である。彼らは受難劇と云う名の大衆の見世物興行の消費財であるにすぎない。二人が最期に何故涙に暮れるのか。それは悔悛の故にではない。何度も言うが、宗教的権威と権力機構と世俗社会の中枢部は基本的なところで繋がっており、宗教的世界にも世俗的な世界にも救いは無く、孤立した二人だけの現存在としてこれからの時間を生きていかなければならないと云う意味である。
 
 それゆえ、最期に映像に映し出された鐘は音が出ないのである。


2.ユダヤ教ラビとの対話

 劇中、キリスト教司祭とユダヤ教ラビが白熱の討議を繰り広げる場面があるが、教義に疎い門外漢にはその云わんとするところが甚だ解り難い。ちょうど大人の議論を子供が聴くようなものだが、解りえたことを解りえた範囲で記せば下記の通り。

 悪は神に淵源するのか、人間の恣意が生みだしたものであるのか、と云うこと。
 ユダヤ教のラビによれば、神を光と断定したときに悪は二項対立の一方の立役者として固定されたこと、これが最初の人間の堕落であり、最初の天使の堕落と云う出来事が意味することである。

 ユダヤ教は何千年にもわたる神と人間の交流史を記憶に留め書物に書き記してきた。そこには理解可能なものも理解不可能なものもある、まずは書き留めておくのである。理解不可能の最たるものは、ユダヤ人が長年月を受けて経験したホロコーストでありディアスポラの歴史である。
 キリスト教は、預言者の一人に過ぎないイエスをキリストとして特権化し、愛と云う万能薬によって救済しようとするが、もともと何でも知りたがり何でも理解し得ると云う主知主義が潜んでいる。

 悪魔とは、神が生みだしたものではなく、人間社会が固有の構造を維持するために生みだした加害-被害の構造が生む、受難と人柱を必然化する構造化された暴力装置のことではないのか。
もちろん、これだけで悪の根源を説明しきれるものではないだろう。悪にはちょうど癌のような生体の破壊本能、フロイトの言うタナトスのような原理をも考慮に入れて考えるべきかもしれない。と云うのも、わたしたち日本人にとって戦争や全体主義の記憶は遠いむかし話の語りに近くなっていたのだけれども、9・11、3・11と続く一連の出来事の背景を考えると、その素人じみた愚かさの原理を説明するのにはむしろフロイドのタナトスの概念を用いた方が適切であるような気さへする。

 ユダヤ教ラビの言葉によれば、悪魔は「愛」と云う道を通って人間界に通って来ると云う、確かに、この映画でも愛なきものに悪魔は取りつかない。映画の終わりで殺人鬼と化した神父の斧で切り倒される二人の青年は、毎晩寝る前のお祈りに暴力的な父への神の加護を祈る心優しきものたちである。
 むしろこの映画で象徴的なのは、聖職者の象徴的な自己処罰の行為である鞭うちと云う処方である。洗濯小屋の両端に分かれて、白い尼僧の衣服が吊るされた見透しの利かない部屋で二人が上半身を露出して自らの肉体に鞭打つ姿はおぞましく感じられるのは多分、別のことを連想させるからであろう。実際に二人は被虐的な行為の精神的かつ肉体的な同型性によって、人格の外殻がこわれ一体となったのであろう。それは天国の裏側から、愛の行為の普遍性を模倣しているのである。
 若き司祭を最終的に躓かせるのは、鞭打ちと云う、宗教的被虐の構造である。

 最期に、司祭は被虐を加虐の構造へと変換することで何を目指したか?
 自分に乗り移った悪魔をより強固に自らの肉体に引き付けるために二人の純朴な青年の殺人が施行されなければならなかった、また、悪魔憑きの尼僧ヨアンナを元の聖女に戻すための愛のための殺人劇でだったと、自らを正当化する。
 司祭の手前勝手の論理は聴くに値しないが、自らを犯罪者として、つまりこの世に生きる者のうち最低の存在者として火刑台に釘打ちにさせると云う背徳の行為は、その犯罪性の自覚ゆえに、単なる自己満足とは異なった世界を開くのかもしれない。
 その世界が何であるかを言うことはできないけれども、犯罪性の中に深く秘匿されてある聖なるものとの形式的同一性を通じて悪なるものの克服劇が予見され得るものの、この映画が示す意味内容の範囲ではそこまで視野は届いていないかのようにみえる。