アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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トマス・ハーディ『恋魂』(こいたま)アリアドネ・アーカイブスより

トマス・ハーディ『恋魂』(こいたま)
2019-02-27 11:08:05
テーマ:文学と思想


 『恋魂』はトマス・ハーディの生涯最後の小説である。
 一人の男と複数の女たちとの愛の遍歴を二十年間の歳月を背景に描かれているのだが、一つの家系に繋がれ連ねた愛の痕跡と云う意味では、一人の女性の魂に奉げられた、一家三代に渡る、プラトニズム風の霊魂の歴史である。
 一家三代に渡る愛の魂とは、エイヴィス・ケアロウとなっていますが、以下の文章では簡略化のため、乙女(Ⅰ)、その娘(Ⅱ)、その孫娘(Ⅲ)とします。

 都会に出て、島に老いた親を訪ねに帰省した見倣い画家の青年が、そこで幼なじみの少女(Ⅰ)とであう。二人は思い出深い懐かしき島で恋に落ちる。しかし決定的な夜になる筈であった島の岬の逢引の場所で、少女は村の因習的な仕来り通り、婚前婚になるのを危惧して暫しの猶予を願う。潮騒の喧しい岸辺に取り残された青年は折からの風雨の中で、意志の強い、古代の女神を思わせる家出少女と偶然のように出会う。吹きつける雨の中を寒さゆえに身を寄せあううちに、濃霧とエロティスムの愛混じった恍惚感のなかで二人は出奔するのだが、これは家出娘の単に島を脱出するための手段として利用されたに過ぎなかった。――以上は男が二十歳のころの出来事である。
 月日は流れて青年は王立芸術院に推挙されるほど画家として大成をなしている。そんな折、ふとむかし島で捨てた幼なじみの少女(Ⅰ)がみまかったらしいと云う噂を聞く。島に帰ると丁度葬儀の途中であった。彼は近寄ることもできず遠くから見るだけであったが、葬儀が果てたあと、小さく侘し気な、か゚って乙女が住んでいた家の窓辺から、瓜二つの少女(Ⅱ)を暗い照明のなかに見出す。いまは零落して洗濯女として永らえている少女を不憫に思った彼は、ロンドンのアトリエに連れて帰る。
 彼は果たすべき義務と、憐憫と、永遠の悔恨のなかから甦った若き日の熱情に囚われて、少女(Ⅱ)こそ遺言の実現だとの口実を設けながら、二十歳も違った娘に求婚する。しかし娘は彼が想像するような永遠の処女性を秘めた乙女ではなかった。初恋の娘(Ⅰ)は詩吟会で鄙には珍しい詩の朗読もするほどの教養を秘めていたが、その娘(Ⅱ)は愛のない仮初の婚約をし、彼に疎遠にされた後は行きずりの鉱夫とも関係を結び、その縺れからロンドンの彼のアトリエに便宜的に転がり込むと云う世俗的な女に過ぎなかった。婚約をしている以上、例え二人が別居状態にあったとはいえ、結婚を望むことはできない。それで二人の保護者を任じることに満足するのであった。彼は島に渡って不実な男に資金を与え島で暮らしていけるだけの営業を身に着けさせる。――以上は男が四十歳の出来事である。
 それからまた二十年が経った。男は六十歳になっていた。ある日、島で暮らす件の娘(Ⅱ)から手紙が届く。再三にわたってお会いしたいと云う執拗な懇願の手紙が来るので島に渡ってみると、既に夫を亡くして寡婦になっていたかっての女(Ⅱ)がいた。女はそれとなく二十年前の男の申し出をそれとなく思い出させようとするのだが、男の前に入る四十歳の女は面影申せた肉体と骨格に支えられたオブジェに過ぎなかった。女は目前にした男の反応から自分の虫のよい願いを潔く却下すると、成人した自分の娘(Ⅲ)をそれとなく男の前にちらつかせてみる。
 二十歳になるその孫娘(Ⅲ)は、まさに初代の乙女そのままの楚々とした風情で幻のように古い城館の芝生のなかを去っていく。彼女は古い館で家庭教師をしていると説明を受ける。
 女(Ⅱ)は男の反応がまんざらでもないことを見て取ると、早々に作戦を変換し、男に寄り添うようにして婚姻話のお膳立てを進めて行く。不実ではあったとはいえ亡くなった夫のおかげで裕福になっていた女(Ⅱ)に今これと云った悩みはなかったが、どこか世俗離れしたところのある娘(Ⅲ)の行く末が案じられてならないのだった。歳は取っていても、教養があり、社会的地位と経済力を備えた、そう云う世知に闌けた男であるならば願ったりではないのか、そう思ったのである。それにしても二十歳の娘(Ⅲ)と六十歳の男では不自然な感じは否めないけれども、それが唯一死期を覚悟している彼女(Ⅱ)にとっては念願であり、やがて悲願のようなものになっていく。
 こうして母(Ⅱ)の勧めもあって娘(Ⅲ)は男との婚約に同意するのだが、夜の照明や陰鬱なイングランドの冬の空の下で見るならばともかく、明るい昼日中に見る男の姿は塑像のように皺が刻まれたオブジェのようなものだった。それでも死期を覚悟した母親(Ⅱ)の懇願故に娘(Ⅲ)は同意する。
 しかし話には裏があって、婚約を決意したその娘(Ⅲ)には実は既にフランス人の許嫁があつて、婚約の日の前夜、恋人に想いでの品々を返そうと向かった島の岬の果てで、二人は運命のように駆け落ちの逆転劇を決意する。二人はオールもない小舟に乗って潮の流れに任せて、運命に自らの命を神に託す。運命の神は二人の乾坤一擲とも云える「海の洗礼」に応えて、無事二人を陸地へと誘う。
 小さな島の出来事ゆえ、男が結婚式を前に娘(Ⅲ)に出奔されたことは村中に知れ渡っていた。母親(Ⅱ)はこの知らせを受けて、弱っていた心臓に思わぬ加重な負荷が掛かって死んでしまう。男は四十年前の因果が(Ⅰをめぐる過去の経緯)、巡り巡って今度は場所を同じゆうして相手を違えてめぐり来ったことを運命として受け入れる。
 しかし男は手酷い精神的な痛手を受けながらも何か憑き物が落ちた解放感のようなものが自身のなかに
芽生えているのに気づいていた。

 そしてこれには後日談がある。
 娘(Ⅲ)と出奔したフランス人の青年とは、かってあの運命の夜、男が非道にも乙女を見捨てたあの晩遭遇した、気の強い、古代の女神を彷彿とさせる女とは義理の関係にある息子だったのである。女が男の元には帰らずにそののち選んだ男とは別の婚約者が世間的には成功し、そして零落し、その時連れてきた義理の関係にある一人息子だったのである。
 まだ葬儀も行われていない島の家に、古代の女神を彷彿とさせるかっての女は訪ねて来る。自分たちの四十年に渡る因果に関わる話を語り終え過去の非礼(四十年前のあの風雨の中で乙女(Ⅰ)から男を奪ったこと)を詫びるかのようである。女に昔日の面影はなかった。それでも女は磨きをかけ美しく化粧していて男と二人、若い二人の者たちが乾坤一擲の思いを籠めて船出した島影を訪れる。女は足元の悪い杣道を男の後を追いながら、自分では気づかずに男にクリスチャンネイムで呼びかけながら、「あなたの姿が見えないの、ついていくのが怖いわ」と云う。そこには四十年前とは違った女の姿があった。男は手をまさぐって子供たちが乾坤一擲の旅にでた入り江に女を導いてやる。
 こうして二人は長い時間をかけて、愛人としてと云うよりも友情関係、人生の途上で遭遇した戦友のようなものとしての穏やかなある種の退役生活、すなわち酸いも甘いも知り抜いた熟年同士の、誰もが祝福を与える結婚生活に導かれたのである。目出度し!

 恋は病であるのだろうか。私が本書を読み終えて感じたのはそのような思いであった。
 果たされなかつた恋、それは時空を超えて、四十年の歳月の長きに渡って男の脳裏に去来する。幻想としてイメージされるだけでなく、仮初の形をとってではあるけれども、具象的な形をとって二代、三代と現象する。
 クライマックスは、若い二人の出奔と駆け落ちの行為の刹那性のなかにある。理由を拒絶するある種の絶対性を帯びた瞬間に掛けられた行為が奇跡にも似た結果を生む。とどろくようなドーバーの潮の流れ、小舟は波に翻弄されて木の葉のように上下し渦巻き激しく回転する。最初からオールのない舟、しかし天啓は、海の潮水でなされた厳かな新約の行為のように、「水の洗礼」を彼らに施したのである。