ハーディ『恋魂』、ふた通りの読み方 アリアドネ・アーカイブスより
ハーディ『恋魂』、ふた通りの読み方
2019-02-28 13:19:04
テーマ:文学と思想
トマス・ハーディの『恋魂』、二つの読み方があるようですね。
一番目は、主人公の青年が恋のイデアに翻弄される話。本人は、自分の性癖を病として捉えていて、何時までも老いることができないと考えている。他方、肉体は、時間の経過とともに、年齢に相応しい劣化の過程を辿る。何時かはかかる精神と肉体のアンバランスを、不自然を払拭しなければならない。四十年前の出来事が、場所をおなじゅうしながらも、登場人物を違えて繰り返された時、そこに輪廻の昇華を見る。主人公は、まるで憑き物が取れたように、自らの老いを受け入れる。
しかし語り手が言うように、これで良いのであろうか。恋のイデーが男から飛び去ったとき、彼が彼であるがままに彼であることを支えていた、実存の根拠が消えたのではなかったろうか。言いかえれば、彼は単なる好々爺、俗物に過ぎなくなったのではなかろうか。しかし他方では、彼の肉体は精神を裏切り続けるので、現状を維持することはできなかった。
もう一つの読み方は、語りに於ける主客を生物的存在である「男」から、「愛の霊魂」へと読み替える道である。
この場合は、愛の霊魂は、複数の人物を通して時代と局面ごとに永遠の実在として再現、繰り替えされる。四十年前の叶えられなかった恋は、時空を超えて、二十年後、四十年後と繰り返して現れる。理念は、己を理想とし貫徹し実現するまで繰り返し、亡霊のように立ち現れる。語り手の実存を超えて、彼の孫たちの世代のなかに宿り、ついには死と隣り合わせの刹那性のなかで、海の女神によって愛の洗礼とでもいうような壮麗な儀式の元に寿がれることになる、と。
つまり、前者の主人公は実在性の男と云う個別の対象を選ぶのに対して、後者は個々の個別的存在を超えた「理念」、つまりイデーと云うことになる。この読み方もまた、プラトン以来二千数百年の歴史と伝統を持つ、愛を解読しようとする場合の常套の方法でなんら新しいものではない。個々の人間や、個々の具象としての物質的存在を超えるものを信じることができるか否か、と云うことになろうかと思うのだが。