アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

今村昌平の『にあんちゃん』(1959年)アリアドネ・アーカイブスより

今村昌平の『にあんちゃん』(1959年)
2013-09-03 19:20:05
テーマ:映画と演劇

http://ecx.images-amazon.com/images/I/2108FQ24MSL._SL500_AA300_.jpg
・ 今村昌平監督の最初期に属する映画『にあんちゃん』、題名のみ有名で知らずに過ごしてきたのだが、小学生のころ聞いたラジオ番組jの方はすっかり忘れてしまっていた。
 それにしてもこの映画、今村昌平でなければ観ようとも思わなかったに違いない。主演は長門博之、健気に生きる、だけど少し頼りない青年を演じていて実によい。あとは――手堅い芝居上手の名脇役陣を除けば、新人かオーディションで選ばれた素人だけの布陣である。

 しかし感動は深い!朝鮮戦争後の日本が未だ戦後の荒廃から脱し切れなかった昭和28,9年の九州北部の佐賀長崎の県境の弱小不良炭鉱を舞台に、両親に死に分かれ、しかも「在日」と云うことであれば、感傷的な素材であることには十分なのに、それを大仰に語らないのである。それは今村の職業的な客観的なドキュメンタリー性であるとか映像文法としての厳密性、と云うことではなくて、子供の世界の語りと云う、他と比較しえないがゆえに、感傷的ではあり得ない、と云う語りの文法を語っているにすぎない。あるいは、絶対的な貧困や困難さは、他と比較しえないがゆえに、淡々と、外見的には客観的であるように見えようとも、感情を排して語るほかはないのである。多くの人が憐憫と感傷を取り違えるのはこうした意味からである。

 粗筋だけを書いたら、気も滅入るような話ばかりである。母に死なれ、そして残された父親の葬儀の場面から始まる。長男である兄と長女である姉、その下に「にあんちゃん」と呼ばれる二男と、末っ子の「わたし」、わたしの名前は安村末子である。
 言葉にならない悲しみをどのように表現したらよいであろうか。例えば子供ならどのように表現するだろうか。葬儀の後、白衣に覆われた棺桶を乗せた船は波止場を沖へと向かう。沖の小島か岬にでも共同墓地のようなものがあるのだろうか。以後、墓参りのことなど一度も語られないのであるから、日本庶民の極貧の人々にすらあった祖先崇拝の伝統すら奪われた人たちであったのだろうか。もしかして水葬、そう考えてみると、遠ざかりゆく船に向かって「にあんちゃん」が沖まで追っかけるようにして泳いでいく姿も納得できる。力尽きるまで泳いで、結局舟の速さには追いつけないのである。
 
 このあと、一家の唯一の働き手である長男が鉱山の事情で首切りに会う。長女は尊愛の仕事を求めて転々とするが、最終的には唐津市の肉屋の住み込みとして、一家の最初の離散と対象となる。後に「わたし」が小学校の遠足で唐津に行った折に肉屋を訪ねてあえない場面があるが、出発間際のバスに要約間に合った姉がバスを追うシーンもある。「わたし」の願いは、喩え豚小屋のようなところでも云い、兄弟四人が一緒に住めるような家は無いのだろうか、と云う願いなのである。
 長男もまた、村内ではアルバイトのような仕事しかなく長崎の方に出稼ぎに行く。出稼ぎに行くとは言っても、仕送りする余裕など無いことが映画を見ていれば解る。要するに外に出るとは食いぶちを減らすため、と云うことと同義なのだ。長男から「わたし」に長い手紙が来る。仕送り出来なくて済まない、と云うようなことが書かれている。
 学校生活では、代金を持ってきた子供にだけ手渡しで教科書が与えられると云うことがあったらしい。生活の貧しさを紛らわそうとパチンコに行くと云う兄を問い詰めて取っ組み合いのけんかをする「にあんちゃん」の姿が描かれる。学校では「わたし」が校庭の鉄棒のところにいる兄を探しに来て、弁当を食べてとお願いする場面がある。要するに交互交互に弁当を持っていき、弁当の無い日は水を飲むだけで済ませていたのだろう。そのことで「にあんちゃん」は教室の窓越しに同級生からからかわれむきになって抗弁するのである。とにかくこの子は泣かない、それが「わたし」の誇りなのである。「にあんちゃん」と云う題名の由来にはそう云う気持ちが潜んでいる。
 
 長男は長崎へ、長女は唐津へ、それで末の弟と妹を親切な人もいるもので預かってくれる元父親の同僚と云う人もいる。しかし家庭では、貧しい上に他人の子をしょいこんでと妻からも責められるが、頑として受け入れない。しかし、便りとしていた隣人も鉱山の事故を契機に村から追い立てられるよに去っていく次第となる。急きょ帰って来た兄は万策尽きて、ある知人の伝手を頼って炭焼きをしていると云う在日の夫婦の元に預けることにする。しかし日々の暮らしぶりは、極貧とは言っても、祖国の食生活そのままの食事は辛すて喉を通らないし、これには流石の「にあんちゃん」も音を挙げて兄妹ともども逃げ出してしまう。
 食べていけないとは言ってもそこは「故郷」なのである。両親たちが強制労働者として移住させられた場所であるにしても故郷は故郷なのである。「にあんちゃん」はとうとう住み込みのようにして魚の乾物の仕事を手伝い。「わたし」は村の女先生の宿直室に転がり込む。そして東京育ちのインテリだけれども心優しい教師もまた、村の近代化に向けての生活改善を何一つ出来ないまま東京へと帰っていく。残された村民はやはり東京のもんは・・・と噂する。天使のような教師の役を若き日の吉行和子が演じている。お嬢さん育ちの世間知らず、無垢さ、何一つ悲惨から救う力は無くとも、あるいはインテリとして、特権階級に属する一人として「東京」と云う安全な場所に帰っていく所詮は他所者であるとしても、「にあんちゃん」が天使に手向ける敬意と畏敬の念は変わらない。物語の最後の場面で唐突に「にあんちゃん」が「東京」を志向するのには「天使」の面影が無かったとは云えないだろう。
 昔の小学校の先生は偉い人が多かったのだろう。女先生が去ると、今度は同僚の男先生が何くれと面倒を見てくれる。一方、村では住まうところもなく野良猫のようにその日暮らしをしていた兄妹だが、「にあんちゃん」は村の手仕事でお金を稼ぐことを憶えて貯めたお金で東京に行きたいのだと云う。ある晩、その事を告げるために「にあんちゃん」が「わたし」を訪ねて来る。とうとう「わたし」はひとりぼっちになるのだろうか。
 しかし東京に出た「にあんちゃん」は、自転車の店頭に「人求む」の張り紙をみて案内を乞うたところを通報されて、警察に引き渡される。東京の夢は無残に崩れたかに見えたのだが、大きくさへなれば自分の力で世の中を切り開いていけると云う希望と自信をいつしか「にあんちゃん」は身に着けていたのである。
 家出事件を心配して駅に迎えに来た久し振りにみる兄と姉、そして「わたし」。兄弟四人が一つの家に住むと云う希望は未だ遠い彼方にあるが、「にあんちゃん」の自信はまた「わたし」の確信――何時かは幸せになれると云う確信でもあった。

 それにしてもこの忘れさられた名作を後世に止めたいと思う。他と比較することなき全体としての経験は、これと同時期に造られた『豚と軍艦』においても共通している。悲惨さに身を置きながらも、悲惨さを悲惨さと観じない極貧を生きる人間の複雑さは、主人公の最後が便器に頭を突っ込んで死ぬと云う不名誉な死に方の描出において際立っている。
 映像芸術などともったいを付けなくても、カメラの不思議さは文学とは異なって「語り」を介在させずに現実を無言の映像として示すことが出来る。その映像文法の不思議さが世の悲惨さを、子供の世界の内側から見たときにどのように見えたか、というのが「にあんちゃん」と云う綴り方教室の魅力であり、ひいてはモノクロの簡素な映像に写し留めた今村の映画処方の勝利なのである。
 もっと多くの人に語られてしかるべき映画の名作である。