アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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もうひとつの東京物語――成瀬巳喜男の『娘・妻・母』アリアドネ・アーカイブスより

もうひとつの東京物語――成瀬巳喜男の『娘・妻・母
2013-09-05 12:04:38
テーマ:映画と演劇





 この作品は、下記の豪華なキャスティングをみればお正月映画などのお祭りめいた作り物として造られたのかとも思えるほどだが、みてみて、思わずうなってしまった、成瀬はどこまで凄いの!

監督助監督キャスト
成瀬巳喜男

広沢栄

原節子(女優)
長女・曽我早苗
高峰秀子(女優)
妻・和子
森雅之(男優)
長男・勇一郎
宝田明(男優)
次男・礼二
小泉博(男優)
薫の夫・谷英隆
仲代達矢(男優)
醸造技師・黒木信吾
団令子(女優)
三女・坂西春子
草笛光子(女優)
次女・谷薫
淡路恵子(女優)
礼二の妻・美枝
加東大介(男優)
和子の叔父・鉄本庄介
上原謙(男優)
早苗の見合い相手・五条宗慶
杉村春子(女優)
英隆の母・加世
太刀川寛(男優)
春子の恋人・朝吹真
中北千枝子(女優)
早苗の友人・戸塚菊
笠智衆(男優)
公園の老人
塩沢とき(女優)

森礼子(女優)
モデル
三益愛子(女優)
坂西あき
北あけみ(女優)
ホステス


・ 物語の話の軸は、小津の高名な東京物語に敬意を表する如く、日本がこれから高齢化社会に向かおうという途上に於いて生じた、老人の悲哀を描いたものである、といっても大きな誤差はないであろう。
 三益愛子が自然体で決して卑屈ではない老婦人を演じている。三益老婦人を引き立てるために、対照的に杉村春子が次女(草笛光子)の嫁ぎ先の姑をコミカルに演じていて、この暗い映画に貴重な人間的な、庶民の温かみを与えている。もちろん杉村の起用も、最後の場面に出てくる笠智衆の起用も、成瀬には珍しい子供のユーモラスな扱いも、そして背景の音楽にオルゴールの素朴な音を響かせるあたりも、十分に計算し尽くされた小津映画へのオマージュである。小津の代表作を踏まえているとみなければこの映画の感傷は一定の閾に達していない、と思えるほど映画造りの意識の極みとでも云えそうな、知的で技巧的な成瀬の作品である。
 そして極めつけは原節子を主演の一人に据えていることであろう。家族は戦後の自由と平等の民主主義駅な風土を背景に、あけすけに利己的な利害を主張し始める家族会議の席上で、原は控えめに沈黙を保つのだが、最後はうめくように、出戻りで肩身を狭くして生きているとは言え亡き父親を面影を偲ぶ長女としての権威において語る場面は、成瀬が東京物語において笠智と東山が演じる舅・姑の前で演じて見せた人柄の良さへの「言及」あるいは「引用」であることは明らかだろう。しかもこの場面は、映画の初めで両親に愛されてきた大家の長女として、婚家にあっても実家を我が家のように自由気ままに利用している我侭さと、一転して夫の事故死を境に、婚家から暇を出されると云う不条理な仕打ちを受けてて実家に舞い戻り、自分の労働力を当てにして女中が暇を出されている経緯子供の前でを聞かされたり、進んで女中部屋を自分の住まいとして選んでみせたり、また食費等の諸経費として幾ら入れたらよいかなどを母親に相談す場面などに、かくも経済的な後ろ盾を失うとは人柄を一変させてしまうものであるかを知らしめて示唆的である。この経済的な零落が一人のお嬢さん育ちの令嬢の上にもたらした鮮やかな対比を、原節子が前半はお嬢さん気の抜けない豪華な微笑と衣装の中に、後半は台所で立ち働く姿などを通じて見事に演じている。原節子、この年四十歳、スクリーンを最後のシーンまで和服姿で通して、若い頃よりますます美しくなっていく神秘的な姿に、正直驚かされたものである。

 対するに高峰秀子、大家の長男の嫁として舅姑に仕えてきただけでなく、多くの小姑達に囲まれてきた日本の大家族制度の中での位置には多言を要しないだろう。高峰秀子と云う女優の不思議さは自分自身の容姿的な美しさを否定することにあったかのようである。同年の木下恵介監督の『笛吹川』では戦場に子供達を負って戦乱に巻き込まれて野垂れ死にするまでのビッコの母親を演じている。(同じ同年も同年、成瀬の『女が階段を上がる時』では端麗な銀座のマダムの心意気を描いて、本当は高峰は大変な美人であることを見せ付けるような圧倒的な映画になっているのが、ここまで言及すると話が複雑になるので大概にしておく。)

 この映画の凄さは、腐っても鯛の原節子の女優としての高貴さと豪華な雰囲気を向こうに回して、最後に自分が妻であり人間であることを自覚するラストシーンに全てが現れている。映画は最後の最後まで、炊事洗濯と育児に追われる所帯じみて長男お嫁の座に少し疲れたいるかに見える彼女が、一家の没落風景を傍で傍観しながら妻の立場を理解すること、妻を通じて日本の大家族制度の家が崩壊した後のバラバラになった人間の絆、むしろ叙情的な湿っぽい人間関係の崩壊を通じてある種の自覚にたっていると言う点がとても尊いのである。
 彼女の自覚とはこういうことだ。――大家を維持できなくなって密かに老人ホームを洗濯した姑の処遇をめぐって、実際に血縁関係にある子供達がーー長女の原を除いてーー支離滅裂な自由と平等と権利の「ウィーン会議」に明け暮れる頃、もともとは没落の原因に自分の叔父の経済的な問題が決定的な役割を果たしていることもあって、高峰は、母親は自分達が引き取ろうと言って夫を驚かせるのである。
 成瀬の映画は高峰に、いままでは長男の嫁として母親に接してきたので自然と遠慮と言うものがあった、他人であることが明らかになるのであるならば、反ってその方が上手く付き合っていけるのかもしれない、と言うのである。この台詞、当たり前のようでいてここは大変革新的な政治的言説が語られていることに注目しなければならない。
 他人であるのだから新しい関係を築くことが出来る、と言うことを云っているのではない。また小津の高名な東京物語の結語場面を踏まえて、他人にもかかわらずあんたの方がよっぽど自分達によくしてくれた、と言う悔やみや繰言の言及可能性のことを語っているのでもない。つまりこの場合の高峰が演じている「妻」としての立場の自覚とは、他人であることを前提とすることで初めて成立する人間の立場ということなのである。
 この事象が革新的な意義を持っており、かつ現代的であると言う意味は、とりわけ3・11以降の昨今の状況、経済的な基盤だけでなく人間関係までもがずたずたにされた現状の中で、マスメディアが「やはり家族だよね」風の、じめじめたドラマやメッセージの発信に熱心で、新しい人間関係を築きえていない現代の現状を鑑みるとき、この映画が最後に伝えたメッセージは時を越えた意味を持っていると思う。さすが鳴瀬巳喜男である、という感慨が深い。