アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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今村昌平の『豚と軍艦』――日本のヌーヴェルバーグ先駆 アリアドネ・アーカイブスより

今村昌平の『豚と軍艦』――日本のヌーヴェルバーグ先駆
2013-09-06 08:56:47
テーマ:映画と演劇

 


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・  日本で今村昌平監督というと、土俗的とか庶民の持つバイタリティとか言われるが、この映画を見る範囲では少し違うのではないかと思う。まず、タイトルの画像を見ていただきたい。これは発表当時の画像ではないけれども、この映画が海外ではどのように見られたかということを言外に語っている。
 この映画はかっこいいのである!この「突っ張った」二人のヒーローとヒロインの充実した表情を見ていただきたい。いわゆる庶民の顔というのではないのである。なんでも世論に抗うのがこのブログの使命であると心得ているわけではないけれども、この知的な画像と映像から読み取れるのは、庶民のセンスなどというものではないのである。
 日本の映画観客のために正しておきたいのは喜劇の役割についてである。今村はその点日本映画の現状に違和感を感じていたようで、わざわざ自分の映画を「重喜劇」と名づけた由である。喜劇というと面白おかしく、時にはペーソスも交えて、というのが共通理解のようであるが、しかしもともと、人が真剣であるときに、それが何ゆえか本人以外の目には滑稽に見える、という非常な認識が喜劇理解の根底にはある。加えて、そうした他者の支点を取り込んで自分自身を見直すときに誕生してくる感情、それが二重化された意味での喜劇なのである。認識の二重化とは、自分自身の外からの見え方を自らの内部に取り込み、想像力という能力を使って自分自身を対自化する能力であるから、想像力と知性が組み合わされた高度な人間的な能力なのである。そうした知性の所産である今村の作品を、単に土俗的だとか庶民的だとかは一概に言えないのである。

 前書きが長くなったが、話の筋は単純である。戦後のいまだ高度成長期には程遠いと感じられた50年代後期の米軍基地横須賀の物語。チンピラと「かたぎ」を夢見るその恋人。戦後の日本はとても貧しくて、とりわけ基地の町といわれた横須賀は米軍とそれがもたらす風俗産業に頼って生きていかざるを得ない。終戦直後のパンパンの文明が横須賀などでは長く残っていたのであろう。
 その横須賀で、まっとうな仕事もなく、夢や技術を求めて都心へ行けるという可能性をも欠いた貧しい青少年と恋人の物語である。基地の現実が重たく未来への障壁として立ちふさがり、外国人によって占領されているというイメージを絶えず腐りきった腐臭のように漂いこの街に無気力と虚無感を醸成しつつある。この街では、人間であることの尊厳を根本的に踏みにじられてある街という感じが常にする。
 この街で生きていくための安易な方法は、米軍の軍需やそれに関連した風俗産業に寄生して生きていくやくざな世界が半ば自明のものとしてあるのだろう。世間が、というか「まっとう」に生きるもの達の世界から白眼視を受けるとき、やくざな世界だけが一見人としてのまなざしで対応してくれるかに見える「誤解」というものもあったであろう。こうして新入りの青少年はやくざの世界のお手伝いのようなことから始まるのだが、しかしそれは最初からやくざ同士の抗争に敗れて殺されたチンピラの死骸を湾内に処分するお手伝いという過酷なものであった。やくざな世界では、殺害が露見しそうになると、誰かがを自首させるというのがやくざの世界の自己防衛の手段としては手っ取り早いわけで、いわゆる「くさい飯」を食ってくることになる。ムショ行きという儀式である。こういう場合も古参のやくざの連中は自分が行きたくないので、若者をおだてたりすかしたりして煽りその気にさせてしまうものらしい。青年の単純さ、信じやすさ、ヒロイズムなどを利用するのである。しかしこの映画の場合は、哲次と言うめっぽう喧嘩が強い兄貴が青年が庇ってくれたので、あろうことか、その死骸の処分に困った一党は死骸を豚のえさに混ぜて消化?させてしまうという天才的な発想を思いつくのである。
 豚のえさの話がどうしてこの段階のこの映画で出てくるかと言うと、一人前のやくざの組は風俗産業などに寄生する、しかし自由主義の原理が働くところいずこも過当競争とは成り、適者生存の過酷な闘争に敗れた弱小やくざも出てくる。そこで彼らが自活のために考えた妙案と言うのが、米軍から払い下げられた残飯を利用して豚の飼育を行おうとするものである。
 しかし下にはしたがあると言うべきか、下衆にはさらなる下衆の世界があるもので、米軍の残飯に寄生する最下層のやくざたちの世界においても、そこに利益と利潤が発生する限り、グループの中で撮り合い分を廻って対立を生んでしまう。ヒーローはやくざたちの仁義なき「抗争史」に翻弄されながら、最後は世界を無茶苦茶にしたくて豚の群れを歓楽街に放ち、ネオン街に向けて目倉めっぽうに機関銃をぶっ放し、官警などに追われて最後は便器に頭を突っ込んで死んでしまう。横須賀の歓楽街をトラックから解き放たれた豚の群れが怒涛の如く疾走する場面の迫力は、この映画の予算の大半をこの場面にかけた監督の意図が読み取れるほど印象的である。
 ヒロインの恋人は、結婚したいと思いながらもヒーローの生き方に愚痴を言うことしか出来ない。しかし「まっとうな世界」の住人にその点を指摘されると感情的にならざるをえない。米軍相手の世界にだけは関わりたくないと思って入るけれども、米兵達にホテルに連れ込まれて輪姦のようなこともされてしまう。彼女の姉は米軍の一人と愛人関係にあるようで、それで家族も潤っているという事情もあるらしい。しかし些細なことから彼女は姉と口論してしまう。自前の生活力を欠いて人間であることの尊厳を踏みにじられることを甘受して生きる基地の街・横須賀とは、実はその当時の日本そのものだったのだろ。
 最後の場面は、港に米軍の軍艦が寄港し、それを目指して走っていく女達の波のような映像と、その流れに抗う用意してひとり、ピンと背筋を伸ばして早足で駅舎の方へ歩き去るヒロインの姿を写して終わる。

 この映画の終わり方は『第三の男』の有名なラストシーンにも似ている。大勢におもねらず、キッと前方を見据えてる女の眼差しの強さは自我の成立と言うものを語っているのだろう。フランス映画などではお馴染みの、この時代の日本映画には珍しい、表情なき表情である。例えば『死刑台のエレベーター』のジャンヌ・モローなどが最後に見せる表情などを思い浮かべる。同様に無様に非英雄的な死に方を死ぬヒーローの方には、例えば『気違いピエロ』のジャン・ポール・ベルモンドを彷彿とさせ、当然この映画が暗示する、この世で一番惨めな死に方を選んだ「あのひと」のようにも、ある意味では崇高なのである。ついでに言えば、この映画がゴダールの一連の作品に先立っているということも指摘しておかなくてはならない。

 今村の映画が、日本の土俗的な物語などではなく、世界標準のヌーヴェル・バーグの先駆的な作品であることは言っておかなければならない。
 それにしても長門裕之のチンピラぶりは良かった。あの時代に、あの環境で、能力も技術も持たない青年たちはどのように生きたらよかったと言うのか。単純で、おっちょこちょいで、信じやすい性格ゆえにその死に様は哀れである。哀れであることを通り越して崇高である。便器に首を突っ込んで糞まみれに人間の最低を生きたピエタ!糞まみれのピエタ
 「ピエタ」を演じた吉村実子も良かった。嘆きと悲しみのピエタであるというよりは、言葉に尽くせない怒りが表情を包むとき、あのモノクロームの、駅舎にひとり向かう無表情とはなったのだろう、知的な作品であることを外しては理解できない印象的な幕切れである。