わたしが選んだ小津の五番勝負 アリアドネ・アーカイブスより
わたしが選んだ小津の五番勝負
2013-09-07 10:47:56
テーマ:映画と演劇
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1、東京物語(1953年) 主演:原節子・笠智衆・東山千恵子ほか
2、麦秋(1951年) 主演:原節子・杉村春子ほか
3、晩春(1949年) 主演:原節子・笠智衆ほか
4、秋日和(1960年) 主演:原節子・司葉子ほか
5、東京暮色(1957年) 主演:原節子・有馬稲子・山田五十鈴ほか
わたしは映画研究家ではないので、わたしの見た範囲での評価である。
一番の『東京物語』は異論のないところだろう。かつまた海外での評価も高い、と聴く。この物語のテーマは、家族のドラマを超えて、人と人との繋がりの中に顕れる永遠なるものの顕現を描くことになった。移り行く時代の陰で形を変えつつある家族の風景描出を通して、生ける者だけではなく、死者たちの物言わぬ遺言に託した鎮魂歌であったことが注目を引く。
二番の『麦秋』もまた、生けるものたちのドラマであるというよりは、過去の追憶に重ねた、生きるものたちの再生のドラマとして読める。『東京物語』が過去への鎮魂と言う方向に傾いていたとすれば、ここには新しい女性の生き方を選びなおす自覚的な行為を通して、新生の日本の平和に対する祈願が仄見える。
『麦秋』を二番に据えるのは、下記に書くように『晩春』が計算しつくされた小津の精密なプロトタイプの作品であるのに対して、自然な芸術的完成度を評価したいのである。
三番の『晩春』は、北鎌倉の茶会に始まり能楽の『杜若』を経て、鶴岡の縁起?に導かれるように中ほどの幸運が、しかし必ずしも結婚が女性にとってそのまま幸せを約束するものではなかった時代における婚姻話を、鎌倉や京都の戦災においても変わることなく不易であり続けた美しい日本の自然の再生と誕生とを重ねて描いている。
小津が、日本人であることを強く意識した自覚的な作品であることが最大の特徴である。小津を論じようとする場合は、内容においても方法論においても中枢にある作品であって、作品自体の完成度を別においても最重要の作品であるといえる。
四番の『秋日和』は、内容的には遺作『秋刀魚の味』を凌いで、白鳥の歌に相応しい完成度と美を実現している。いまなお美しい原節子の面影を確認する事が出来ると共に、特に最後の榛名山へのお別れハイキングや伊香保温泉の映像に重ねて文部省唱歌を歌わせたことの意義は大きい。
この作品の中に濃厚に見られる青春賛歌は、その現実性を超えた輝きにおいて、小津安二郎と言う映画監督が自らの映画履歴を無意識のうちに回顧しているかのようで感慨に堪えないのである。
五番は、遺作『秋刀魚の味』を取らずにあえて『東京暮色』とした。その理由は、原節子と山田五十鈴と云う稀有の女優の組み合わせを評価したいからである。第二に、親と子の理解のし難さをとおして、山田の演技は母親と言うものの、日本の女の愚かさを演じさせて哀れである。哀れであるという意味は庶民は言葉を持たないという意味で哀れである、と言う意味である。また、大人たちの利己的な都合がどのように子供達に陰りを長年月において与えたか、与え続けたか、小津の映画をほのぼの路線としてみる最近の傾向に釘を刺したい、と言うプロテストの意味で取り上げた。
男社会の時間においては、女や老人や子供達、彼らのいわゆる「社会的弱者」が本当のこと、一番大切なことを語ろうとするときに、「家族」や「父親」「母親」はなにゆえに不在の視点としてあらざるを得ないのかと言うドラマ的構造性を描いた『晩春』が、まるで逆方向に読まれていることに対して抗議したい。『東京物語』や『麦秋』の真の主人公は、死者たちでもあるというと、それが必ずしもそうとは読まれていないことに対して!