吉村公三郎の『安城家の舞踏会』 アリアドネ・アーカイブスより
吉村公三郎の『安城家の舞踏会』
2013-09-09 09:25:57
テーマ:映画と演劇
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・ 失われていく華族制度の崩壊を背景に、安城家の人々が、旧社期の枠組みや制度、そして慣習や因習をさって生に目覚めていくお話し、と概括できる。
期待して見なかったので、観終わったあとの余韻もまた、意外なことに、上質のワインを飲んだような感じだが、1947年と云う日本が未だ混乱の最中ににある時代にに時代離れした映画が制作された、と云うことに驚きを感じる。
近代化の凡そ百年、真の貴族ではなく、成り上がり貴族が多いと云われていた戦前の日本の上流階級においても、この程度にはブルジョワ意識が定着していたのかと思えば、わたしたちの「戦後的」な偏見に対する証拠にもなりえよう。
俳優が、夫々に良かった。クライマックスは、舞踏会が終わった後人気のない安城家のホールで父と娘がダンスを踊る場面であるが、思えば、こんな気障な場面を演じることを戦後の日本人は望まなかったし、また演じる事の出来る俳優もいなかったのである。相手の好意を引き出すように微笑みと視線を贈る原節子ならではの気品が、日本人離れした場面の不自然さを取り除いている。
滝沢修の没落する老貴族もにあっていて、『山猫』のバート・ランカスターを彷彿させる。『山猫』に先立つこと二十年、実に対照的な、公爵と伯爵の舞踏会の風景である。
長男を演じた森雅之のデカダンスぶりも良い。実はピアノを愛し、まともな感性を残していて、安城家の最期の舞踏会の重要なシークエンスごとにピアノを気障なパフォーマンスで弾いて見せるのだが、いかにも旧社会の没落を語る愛惜の、弾き語りめいていて良い。戦後の森は、黒沢の『羅生門』や成瀬の一連の映画で、煮え切らない男、不実な男、駄目男、と云うイメージが定着していたので、昔はそうではなく、気障でニヒルな役もやれたのだ、と認識を新たにした。
逢初夢子、初めて知る女優さんだが、名前からすると宝塚出身だろうか。原節子の洋装に対比するように、全編を通して華麗な和服姿で、貴意の高い無力な長女を演じている。
娯楽作品としては良くできた映画であると思うが、同時期の小津安二郎などとくらぶれば古色蒼然!とした古さは否めない。安城家の老伯爵、芸術的感性の卓越した長男、滅びゆく旧体制の無力の象徴のような長女、そして戦後を見据えた利発な次女と、夫々に過去の因習を逃れて新しい時代の息吹を感じさせるところで終わるのだが、やはり「人間」と云うものが描かれていないのは、エンターテインメントとしてやむを得ないことなのだろうか。1941年の小津の『戸田家の兄妹』などがよく似た構成でありながら、流石は小津と云うか、その相違点について考えてみるのも興味深いだろう。