アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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清水宏の『風の中の子供』(1937年) アリアドネ・アーカイブスより

清水宏の『風の中の子供』(1937年)
2013-09-10 08:35:44
テーマ:映画と演劇

 


http://ecx.images-amazon.com/images/I/11oiQv7xLDL._SL500_AA300_.jpg
・ 一言で言えば一夏の、だが、子供達にとってはとんでもない夏休みを挟んだ日々であったろう、と思われる。
 善太と三平と云う兄弟が両親と暮らしている。善太は優等生で大人しく三平は腕白で暴れん坊である。仲はいいのだが二人でしょっちゅう取っ組みあいをする。
 父親は近くの事業所で管理職らしき職分にあるらしく、暮らし向きはまあまあである。しかしそんな父親が、ひよんあことから金銭がらみのトラブルに見舞われて事業所を首になってしまう。父親はその後警察に連行され拘置され、家は抵当に、母親は仕事をするために次男の三平を親戚の叔父さんの家に預けざるをえなくなる。しかし、木登りをしたり、盥で川くだりをしたり、家出をしていたのを曲芸団の中に潜んでいたりと、散々に親戚を心配させるので、とうとう突っ返されてしまう。
 兄の善太のほうは一人になって、母親が町で仕事探しをしている間中、雨戸を閉め切って一人で隠れん坊のまねをして寂しさを紛らわせている。

 つまり、二人の生活は一変したのである。
 ここで面白いのは、父親が会社を首になったのを知ったときの二人の表情である。三平は最初は強がりを言って、首になっても父親は大きな会社を作るのだと言うのだが、やがて兄弟ともども抜き差しならぬことが生じていることを知って、玄関前の庭で二人してもじもじして家に入ろうとはしないところがおかしい、と言うか哀れである。大人の世界と言う、決して子供には知りえない言語的に明示化されない事象に対して感じる不全感、腕白だとか言われようとも、それは両親に保護された「子供の世界」と言う小宇宙を前衛にして始めて成立していたものであることを、つまり子供の世界と言うミクロコスモスを「外側」から見る眼差しの発見と、言い知れぬ存在感の不安を描いた場面であると考えられる。子供達は大人達の世界で起きる出来事を決して明示的な形では、言語的に対象化された形では理解しないけれども、これからの暮らしぶりの変化などもふくめて全てを瞬時に理解するものなのである。
 それで父親は子供を励ますために相撲をとろうと言う。この場面が最後の場面で生かされて、無罪放免になった父親は叔父を交えた祝宴の最中に、庭から顔を交互に出して「おとうさん!」「おとさん!」と連呼し続ける兄弟と相撲を取ろうとあの日のように呼びかけるのだが、実際には相撲を取りながら、父親の力に、その反力に押されながら三平は力の中で泣いてしまう。
 終わってみれば、とんだ杞憂と言うべき一夏の経験であるのかもしれないが、しかし子供達は何時までも続くと思われた子供達の世界の外側が、つまり世界の果てをを覗き見るという、稀有の経験をしたのであった。
 外側の世界とは、今から考えれば、太平洋戦争と言う大きな現実であった。そこでは対象が赤ん坊であろうと老人であろうとも容赦しない無機的で過酷かつ苛烈な世界であり、世界史がそうした方向に日本社会が進みつつあることも知らないで、子供達は村を練り歩く曲芸団の一行を黄昏の空の下に夢を見るように追い、ターザンの真似をして仲間を呼び、川遊びに昂じるのであった。
 モノクロの荒れた映像なので判然とした印象を結び難いが、夏休みの子供達の上に広がる空と雲はまるで自分達の子供時代、わたしたちの過ぎ去って帰らぬ過去を回想するかのように、失われた山河とともに、あくまで日本の永遠であるように美しい!

 清水宏と言う監督のことを初めて知りました。小津と同年輩で、戦前は高い評価を得ていたのだそうです。その点は、この画像を見終わったあとの、深い余韻が十分に示していることです。