アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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木下恵介の『楢山節考』(1958年)アリアドネ・アーカイブスより

木下恵介の『楢山節考』(1958年)
2013-09-11 09:07:42
テーマ:映画と演劇




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・ 悲惨なこの姨捨の伝説を、リアリズムの方向で描いたんならばどうなっただろうかとも思う。映画監督木下恵介は『笛吹川』でも同様だが、簡潔な様式美の世界にまとめている。それがこの作品を社会派としてみる場合は物足りないのかも知れないが、悲惨さを、伝説として、説話として遠い彼方の出来事として、その衝撃力を和らげている。

 とは言え、舞台劇にも思わせる偽古典主義のドラマも、起きている事象のひとつ一つをドラマの背後に想像するとおぞましさに戦慄しそうである。いわば観客は木下のこの映画において、スクリーンの背後に想像力をもって現実をみなければならない、想像力を持って現実を透視しなければならない。如何に悲惨な現実を突きつけられても人間は忘れてしまうものであり、また痛みの感覚もそれが神経の許容範囲を超えてしまう場合は、ひとは却って無感覚になるものである。ものを見るとはそういうことで、人は目に映じたままを見るのではなく、想像力を介してものみること無しには真の意味での経験にも芸術的感傷にもなりはしないのである。

 いま一つは、木下の映画文法として様式性を用い場合に総体的に云えることなのだが、例えば前記の『笛吹川』においては、笛吹川を渡る長い橋が主人公であった。あるいは長い橋を通過する不可視のものとしての時が主人公であった。橋が風雪に耐え、科目に時間と歴史と人々の喜怒哀楽の事象のこもごもを抱え込みながら、無常と言うべきか橋は変わらず人々は死んでしまう。しかしその橋もいつかは洪水や天変地異によって異変を被らざるを得ないであろうし、映像はごく控えめに長い橋の中に生じた微妙なな変化、最初は飛び飛びにでもあった橋の欄干が失われていることを寡黙に、最後は望遠でわざと目立たないように映し出す。主人公は人のドラマを超えた永遠なのである。永遠に直面したとき、人は何故かくも死に急ぐのだろうかと言う『イーリアス』以来の嘆きがここにはある。

 そうした時の不易を一方におきながら、信州の貧しい里、姨捨村を舞台に悲惨な伝承と現実のドラマが進行する。
 主人公は「おりん」と言う69歳になる老婆である。この村では70歳になると楢山詣でをしなければならない。楢山に行くとは神に召されるということである。貧しい村では人減らしのため老人は山に入らなければならない。おりんもそのことは十分に承知していて数年前から準備を怠らないで来た。唯一つの気がかりは一人息子唇平の嫁が子供達を残して昨年来世に旅立ってしまったことで、後添いが必要だと思っていることである。それも今年の楢山祭りが近づく頃、隣村から夫の四十九日を終えた未亡人が上手い運命のとりなしで縁付いてくるという。
 こうして未練もなくなった老婆はもうひとつのある種の決断をする。その決断とは、楢山詣でが近づく歳にでもなれば健康な体や、とりわけ立派な歯が揃っていることは見苦しいこととされ、事実、あろうことか孫のけさ吉などは率先して、歯が三十三本の戯れ歌を歌って囃し立てているほどである。歯が三十三本もあるほど食い意地が張っているという意味である。老婆は、石臼で歯を打ち砕いてしまう。
 また隣家には七十を過ぎても楢山さまに行かない老人が隠れるように住んでいる。実の息子があろうことか懲らしめのために掛けた縄を食いちぎり、食事もあてがわれないのでその暮らしの乞食のような人の情けにすがるような生き方をしている。物語の後半ではこの老人は、息子から楢山詣でに強引に引き出され、谷底に突き落とされる。そこは死の谷で、同様の運命を遂げた古い昔の同村の老人達の別様の墓場なのか、谷間全体に野鳥が群舞しているという凄まじさである。
 また隣家には、親子二代で村の食料を盗んだ咎でリンチにあう家族も出てくる。子供や赤ん坊まで村の広場に引き出され村の慣習法に則って袋叩きの刑に処せられる、それが温厚な唇平の懇願によって中断されたために、結局は後日に仕切り直しをさせられ、唇平たちの知らぬ間の真夜中にものを言わぬようにして連れ出され、忽然と家族全員十二人が村から姿を消す。それがどういう結果なのかを映像は決して語ろうとはしない。近代の法令の根底には基本的人権の尊重の思想があるらしいが、共同体の慣習法は時に残酷である。戦時中、同種の経験を見聞し、自らも体験した日本人もいたのではなかろうか。日本人は同種の過去を思い出しただろう。

 最後の場面は有名なので簡単に書くが、背負子に背負ってきた老婆を山の頂において、悲痛な思いで山を降って行くと、俄かに雪が降り始めてくる。息子は、かねがね母親が雪の降る日にめぐり合うことの幸せを度々口にしていたのを思い出して、禁じられている所作を――とは、つまり山を振り返ることを、そして感情の高ぶりを抑えることが出来ず一目散いま来た道を逆方向へと、山の頂に立ち戻る。雪が降りしきる中にひとり豁然と座して念仏を唱える母親の姿がそこにはある。そして、え、ちかづきはようもしないで、離れたところから、お母さん良かったね、と言うのである。

 こうした信州に伝わる伝承と伝説の悲惨な物語を、木下の映像作品は三味線と杵屋流の粘りつくような語りのうちに沈痛に、時には激して激しく扇情的に、そして最後は嫋嫋と余韻のうちに一部始終を語リ終える。
 ひときわ目立つのは田中絹代で、彼女の一人舞台であるような観がある映画で、彼女の何時もながらの、幾つになっても失われることのない、きらきらする少女のような眼差しが、却って日本の母と言うものを、普遍の相において髣髴とさせる。なぜなら母親と言うものは子供を見るとき幾つになってもきらきらした瞳でものをみるものであるからである。
 とりわけこの映画で美しいと思ったのは、孝行息子の唇平が運命を受け入れる事が出来ずに手ぬぐいで顔を被って炉辺で仰向けに寝ているのを、母親がせめて自分が生きている間は顔を自分にみせておくれと嘆願する場面である。母親の眼差しに堪えることが出来ない息子と、子供の寝顔に見入る老婆の幾つになっても代わらない母としての表情が強く印象的に残る作品である。

 なにゆえ木下恵介がこの作品を、レアリスムとして、あるいはドキュメンタリータッチでは撮らなかったか、そういうことを考えさせる作品である。