アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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溝口健二の『残菊物語』(1939年)アリアドネ・アーカイブスより

溝口健二の『残菊物語』(1939年)
2013-09-12 07:07:48
テーマ:映画と演劇

 

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・ 陳腐なお話といえばそれまでだろう。歌舞伎の名家に生まれていずれは叔父の元で尾上家を継ごうとする菊之助をと、家の貧しい子守女中の間に芽生えたほのかな恋情が何時しか燃え上がって、跡目を継がなくても良いとまで思わせ、男は破門になる。旅烏となった男を、女はそれを大阪、名古屋、さらには旅芸人にまで身分を落とした「若旦那」を追って、骨身を惜しまずかいがいしく世話を焼き、最後は、零落した若旦那を立ち直らせようと、乾坤一擲の、身をを犠牲にして歌舞伎界への復帰を画策し、その陰で自らの栄華は少しも求めないで、慎みと言う美徳の中で、貧しく死んでいくというものである。テーマは、謙り(へりくだり)の愛と言うものがいまだ生きていた時代の物語である。

 印象的なのは、身分違いの女中が意外と歌舞伎を観る見識の持ち主で、名家の跡取りであるという理由だけでちやほやするあたりの雰囲気を拝して、率直に演技批評をするところが面白い。この映画は、技芸、と言うものを透して、単に身分違いの良くある恋物語の一種としてではなく、技芸を通しての誇り、と言うものを描いているのだ。

 成瀬巳喜男に『歌行灯』と言う素晴らしくも格調の高い映画があるが、この映画も同様に、技芸や芸能における「位」というものを描いている。映画の途中で旅芸人に零落した菊之助を女が諭すのも「位」と言うものである。
 能や歌舞伎の技芸と言うものは、個人の演技の上手下手ではなく、「位」を表現するものである。それを若旦那は勘違いをして、自らも努力精進するならば何時の日にか東京の歌舞伎界を見返すような名優としての演技の習得さへ可能であるかのように考えて、そうして威勢良く啖呵も切って見せたのだが、長い放浪生活と貧しさの中で芸も人間としての性格も荒ませてしまう。しかし貧しさの中にあっても身分違いの女が見せた献身的な愛は、謙りの精神と言う美徳を、何時しか菊之助の演技に、「風格」と言う「位」を授けていたのである。
 『歌行灯』においても能楽師としての覇気や驕りゆえに破門され、旅芸人や流しの生活を甘受しなければならなかった。同様に溝口の映画では、生きてきた自分の事よりも他人のためを思うという古い日本人の美徳が、技芸のゆえに、技芸に導かれて蘇る、そういう目出度いお話なのである。

 最後の方の、歌舞伎の世界で大船入りと言う、水路に屋形船を浮かべて歌舞伎のスターたちが沿道に詰め掛けた観客の一人一人いたいして積年の謝意を伝える行事は、絢爛たる中にも難波の夜空を水面(みおも)に映してひたすらに美しい。
 印象的な場面はそのほかにも、最初の方で水路に沿って二人が歩きながら、身分を越えて女が菊之助の演技に注文をつける場面、それから大阪の夜空を映す花火大会の日に、人出を避けて自分達は出ないで、冷えたスイカ菊之助あ自ら包丁を入れて台所の片隅で二人だけで食べる場面は庶民的で美しい。庶民的であるという表現が相応しくないのであれば、終始、セットの照明を落として被写体に近づくことなく遠慮するように遠くから、人形浄瑠璃の世界のように描かれる溝口の映像世界は、映像自身が映画のテーマである「謙りの精神」というものを体現しており、如何なる場合も映像の流れとしては幻想的であり、静謐で簡素な美の極みと言うものを表現している。

 日本の古典的なある種のラブロマンスものが西洋のものと違うのは、男女の愛と言うよりも、技芸を通して、技芸の神髄に生かされるようにして愛の生業(なりわい)が成立している、と言う点である。
 第二に、演技とは西洋演劇の世界とは違って、個人のパフォーマンスを超えた「位」として表現され、「位」とは当時を生きた誰にでも共有されていたような価値観や伝統意識によって支えられていた、と言うことである。演劇空間の共同性こそが役者の演技に客観性というものを与えていたのである。
 難しく言えば家門意識とか「位」と言うものは、「名」として綿々と先代から受けつがれてきた演技や態(たい)というものを模倣し、模倣を通して伝統を、伝統的な繰り返し演技を模倣するという所作の中で、様々な時代の相が「引用」される、つまりインターテクスチュアリティーに於いて、主観や客観を超えた謳いと語りのこの世ならぬ超越の美を、つまり芸術を成立させている、と言う意味である。