アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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言語についての断片群――あるキリスト教映画に寄せて アリアドネ・アーカイブスより

言語についての断片群――あるキリスト教映画に寄せて
2013-09-26 02:53:55
テーマ:文学と思想

以下の文章は、未定稿の書き込みからの採録です、ご容赦ください。

 


神の子としての現実を、神の子としての地平で生きることも出来る。

神の子としての現実を、人としての在り方の中に受ける=受肉、としても生きることが出来る。

かく、生きることは神秘に満ちている。

前者は天性の神意のままに生きるものであり、後者は人としての在り方の中に、重ねて神々の末裔として生きるあり方、これを受肉と云っているような気もする。

『神々と男たち』とするよりも、内容からは「神々と人間たち」、つまり受肉と云うあり方としては、高貴なあり方と平凡な人間としての在り方の中間に存在する、つまり、接続詞としての{と」にはそう云う意味がある、そのように勝手に理解しました。


宗教的な神学論争を超えて、互いに、人の在り方として、平和に共存する在り方はないのか、と云う制作者の意図が伝わって来るような映画ですね。それがキリスト教のプロバガンダ、受難劇とは少し違っているようです。

神の意を受けて、イエス(人)は神意のままにキリスト(救世主)として顕現する、――これが受難、パッションだと思います。

人はまた、神意を受命として受けて、その受け方が、人の在り方としての地平であるとき、受肉、になると思います。受肉とは、この映画では、修道院と云う場所を意味しているとおもいます。

形なきものを複数形で呼ぶヘブライの伝統も、詩編やそれを請けたヨハネ書の解釈も示唆的ですね。三位一体も言葉の位相が異なりますので複数形にはならないのでしょうね。

思い付きを書けば、もしこの9人の修道士たちがキリスト教を放棄することを代償として行動したならば、事態は、どのように変化したのか、あるいはしなかったのか、と考えます。


例えば晩年の遠藤周作は『深い川』において、教会の壁(ことば)の「外」に神意は存在しないのか、と云う問題意識があったようです。結果としてこの小説は荒唐無稽な稚拙な作品となりましたが、試みとしては、理解できるような気もします。


おれが『沈黙』と、『深い河』の間にある、問題であると思うのですよ。

時代性としても予言性を持ち、且つ作品としての完成度も高い前者と、意余って言葉足らずの後者の、稚拙さ、作品としてもリアリティの無さの問題でもあります。しかし最近では遠藤の「意」を汲み取りたいですね。宗教と芸術性の問題、単純ではありませんね。

中間に『侍』と云う作品がありますが、侍――さぶろう、つまり、神の廻りをさぶろうた果ての男の物語です。地球を半周もして彼は何を見出したか。苦難の果てに帰国した彼と一族を待っていた運命は過酷なものだった、と云う言お話です。


聖書と教会の壁の外にも神はあるか?と云う問いは、如何にもインテリのクリスチャンらしい問題意識ですね。

隠遁生活を送る彼らにかかる問いかけは、御指摘の通り愚問以上のものではないでしょう。


DES HOMMES ET DES DIEUX

表題の解釈としては、「人間たちと神々」ではそっけないので、記事にある「人間たちの、そして神々の」の方が良いでしょうね。それか、思い切って、「人々と神々の間に」と意訳して見るかですね。その理由は後で述べます。

まずそれ以前に、「神々」がかくも多様に理解されることが、八百万の神しか知らないわれわれには驚きなのですが。

神々――不可視のものを語る民族的伝統、これは日本にはありません。さらにこれを卓越したものの語彙に於いても語る。さらに世俗的世界で人を裁き得る者の実存的根拠を問うものとしても用いる。

さらに口承性言語においては――詩編は「詩」であり「賛歌」であるので、歌謡と云う歌う能作的感性の中で理解すべきこと、そして信徒にとっては信仰の中で理解さるべきことなどなど、示唆的ですね。

映画を見なくても、これだけのことを考えさせるこの記事は有益でした。


さて映画『神々と男たち』に話題を返して見ると、詩編82の解釈は、主人公の一人クリスチャンが受肉思想を語る場面で関連づけているとすれば、映像作品のコンテキストに添って理解すれば自ずと自然な理解が得られるはずです。

神々や、男たち、人間たちの解釈も、文法上の形と内容の関係も、コンテキストの中で、自ずと理解は浮き上がって来ると思います。

男たちと人間たちと、そして神々の間にあったもの、それは「受肉の場」としての修道院であり、いま生き食べ眠り呼吸している人間たちの生きる世俗と云う場所である、と理解します。

最期に、この映画の最期に出て来る、男たちの最後の晩餐でみせる微笑、素晴らしいそうですね!そこまで拘って日本の翻訳者は「神々と男たち」としたのでしょうか、素晴らしい解釈だと思います。


祈りの所作や、歌謡や声明を通じて立ち上がって来る世界の神秘性について注目したのは、芸術的興行に関わった数年間、そこで出会った人々からの教授、伝授、伝聞であったことを、いま懐かしく思います。

所作や歌謡が齎す特権的な意味空間の出現については、言語を超えたもの――この場合の言語とは主に書記性言語のことなのですが、口承性言語も含めた身体性言語に最近は注目しています。

日本の古典芸能を――隣から、「盗み見て」いた範囲で云うのですが、古典芸能史に於いて江戸から近世・近代への移り変わりの中で、源氏物語の卓越が注目される、とその方は云うのです。その方とは、徳丸吉彦先生のことです。

源氏は語られ、平家は謳われた、とおっしゃるのです。

平家物語の盛衰に、琵琶語りもまた命運を共にすることになりました。

平家に対する源氏の卓越は、日本芸能史の本質的な特徴を語っている、と云うのです。


平家の謳いを日本の常民は如何に聴いたか。これは、そんな昔のことではなく、わたしが住む地域からそれほど遠くない国東半島の、山間の里山やや津々浦々の村々をめぐった盲目の琵琶法師たちの在り方を描いた、ドキュメンタリー番組を見て気持を新たにしたものです。

むかしむかし、目に障害を持って生まれてきた子に生業の技術を身につけさせるために、日本の村落共同体は暖かい配慮を示しました。それが琵琶を携え平家を語る琵琶法師たちが、お布施をいただくために津々浦々をめぐった、という伝統です。

この前提には、「可哀そうだ」と云う近代主義的な憐憫の情やキリスト教的な博愛とも異なった、何らかの不具者や身体的に生涯を持つ者に、生まれながらにして持つ聖性の顕現を見た伝統的な共同体の文化的な背景もあったことでしょう。


もともと言語は識別するという能力を強く体現しており、「分別を持つ」と云う言い方からも明らかなように、言語の能力を知性と同一視する可能性は常にありました。芸術性言語は、近代主義的な言語の越権に対して一定の見識を示し得るのです。

この点はまた、オペラの誕生が近世の一部のイタリア人にとっての過剰な古典古代への思い入れ――ギリシア人は如何様に語ったか、と云う荒唐無稽とも云える妄想の中から生まれたことは示唆的です。

つまり「饗宴」の中で語られる会話が、通常の意味伝達態の言語ではなかった、と思わせたのです。彼らは、きっと謳うように語ったに違いない、それがオペラのアンサンブルと云う形式と関係があるのかもしれません。

祈りと云う形式もまた語りであり謳いであり、言語――書記性言語によって意味されるもののみでは語り尽くせないこと、これは自明です。


日本古典芸能に於いては、能楽の場合も茶道の場合も、一挙一動が先人の形姿に倣うと云います。所作や感情表出に於いて、恣意性や観念性を嫌うのですね。

先人を思うとは故人を想う事であり、形に対して一言一句、一挙一動を疎かにはしないと云うことは、形式主義ではなく、流行りの言葉で云えばインターテクスチュアリティ間-テキスト性、と云うことになります。つまり同一の所作の繰り返しが模倣ではなく、過去を「引用」することで時間的な地平を開くのです。

能楽の場合は喜怒哀楽の紋切的な形式性の中に、己が日々の感情を「言外」の「引用句」として、演じることが可能になるのです。これは恣意性や近代主義的な解釈とは何の関係もないものです。

ギリシア劇や、また極めて喜怒哀楽の感情表出が希薄な能楽と云う仮面劇に於いて、または茶の湯に於いては一椀を一座で囲むと云う一期一会の中から、形式的であることと日常的であることとは何の矛盾もなく結び付くのです。


能楽や茶道の形式性は、様式として形を踏襲することに於いて、先人や故人の事跡を「位くらい」として「引用」し、引用が演じられる場としての舞台として、その日その時を繰り返しの中で永遠性に結びつけるのです。

「位」は故人の「体」ですから、音符があるのではなく、位がテンポと抑揚を決めるのです。位を偲ぶと云う行為が舞楽を自ずからに導くのですから、厳密に言うと客観主義的な再現ではないのです。結果として、意図せざる趣向が生かされると云う逆転した結果を生むこともあるのです。

かかる瞬間に賭ける契機を、一期一会と日本人は呼び習わしてきたのです。


『男たちと神々』と能楽や茶道――身体性言語の考察が何の関係があるのか、と思われるかもしれませんが、

定型的表現の中に何を籠めるか、と云うことですね。

歌舞伎なども、良く知らないのですが、忠君や孝養の儒教的なお題目に重ねて、江戸人の人情を語ったものではありませんか。


確かに聖体拝領は、――良く知りませんが、裏千家宗匠がローマカトリックの会堂で献茶式に臨まれている姿を、かって映像でみた記憶がありますが、不自然とは感じられない理由が得心行きました。

茶釜から響いてくる微かな松籟の音に耳を澄ませ、袱紗捌き、茶杓をふきあげる扱い、柄杓の優雅な取り回しなどは、とりわけ「淨め」の意識が強いですね。

柄杓を茶碗に受ける一連の所作を、「引く」と表現しますが、透明な湯の滴りは、確かにキリスト教の聖水を思わせるものがあります。


言葉や、言葉を超えた祈りが、極限状況におかれた時、如何にあり得たか、と云うことをこの映画は考えさせます。

言葉では言い表せない、言語の壁、と云う様な事を普段口にしますが、この言い方は逆に言えば、言葉ですら表現できないような思想とは何だろうか、と云うことを考えさせるのです。

祈り、受肉の思想、について言葉を用いて考えてきました。日本語の言葉としての美しさ、しなやかさ、そんな別のことをも考えてしまいました。


「われら」、「神々」、複数形の使用、異文化を知ることは含蓄が深いですね。

いろいろと、学ぶことが出来ました。