アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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遠藤周作の『侍』――へめぐりさぶろうもの アリアドネ・アーカイブスより

遠藤周作の『侍』――へめぐりさぶろうもの
2013-09-27 05:34:56
テーマ:文学と思想

 


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・ この小説は一人の野心的な宣教師の手段に乗せられて、東北の一寒村の半農半漁ならぬ、半農半武の武士が、あろうことか太平洋の荒波を超えてメキシコへ、さらには大西洋を超えてスペイン、ローマへと至る長征を遥々終えて帰ってみれば、恩賞はおろかあろうことか、あれほど「侍」が愛した祖国では一族を巻き込む苛烈な運命が待ち構えていた、というものである。さしたる覚悟もなく、便宜的に――と、「侍」には思えた洗礼と云う「仮初の儀式」が、あだとなっり、彼自身のみだけではなく子孫にまで累を及ぼす過程が、最期は予見的に語られている。
 主人公は長谷倉(支倉常長がモデル)と云う田舎武士とベラスコという野心的な宣教師である。あくまで集団主義的な思考から逃れられず自らの意思を持たない長谷倉が日本人を、ベラスコがキリスト教の布教を口実に自らの権力志向と世俗的な野心を悪辣な形で遂げた、西洋の象徴であったことは明らかだろう。
 この小説の真の主題は、西洋対東洋である、と理解する。

 この小説なにゆえ「侍」とは名付けられたか。
 侍の本義は、さぶろう、つまり権力のまわりをさぶろう者の意味である。受難や殉教の覚悟もなく、結果的にはかかる過酷な運命に追い込まれる盲目的主体性の無さの、日本人の悲喜劇を描いたものであるとは云える。
 しかし読み終えてみれば、「さぶろう」の第二の意味、作家・遠藤周作の目には、神の廻りをさぶろうもののようにも見えた、という意味であろう。ここでは、『沈黙』と同様の、遠藤の代表作の基本的な理解を踏まえて、同伴者としてのキリストと云うイメージの、復活の原義において読むことが出来る。

 一個の、赤子のような無知と素朴の中に生きる日本人を、苛烈な西洋史の流れの奔流に直面させる、つまり西洋文明が持つ暴力性がどこまでキリスト教と関係があるかについては、当然ながらこの小説では問われることはない。しかし描かれたテクストとしての『侍』には、制作者の意図を超えて、宣教者としての世俗的な野心が、――つまり条件さへ変われば、最期は殉教劇と云う、壮大なスペクタクル劇へと変貌する可能性についても、決して晩年の遠藤周作は寡黙であるとは云えない。作家の思想を、表現者としての形象性が乗り越えてしまう、文学固有の問題である不可思議さがここにはある。
 長谷倉らの武士団の一行のローマ行きの途中にメキシコが経由されていた意味は、偶然ではなく、ピサロやコルテスらのインディオ世界の制服と云う過酷な世界史的史実への、沈黙の言及であることは明らかだろう。

 遠藤には、殉教と云う、自己陶酔的な生の様式についての懐疑が常にあったと思う。この小説でも、反転された権力慾や世俗的な野心が、キリスト教と云う装置の中で容易に、殉教と云う様式に、何の困難もなく変換し得ることを描き出していることについて、容赦があるとは思えない。西洋キリスト教に対する懐疑は声高に語ることは無くとも、遺作『深い河』などにおいて深い内的な独白の形をとる。

 この小説は、森鴎外の中期の歴史小説を思わせるものがある。辛辣と皮肉さにおいて遠く及ばないにしても。