アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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成瀬己喜男の『鰯雲』アリアドネ・アーカイブスより

成瀬己喜男の『鰯雲
2013-10-03 01:58:41
テーマ:映画と演劇



http://livedoor.blogimg.jp/michikusa05/imgs/c/7/c7859305.jpg?8fc8ee22
戦後の農地解放にって揺れ動く東京近郊の農村を背景に、変化する地主と小作の関係、戦争が残した深い傷跡、時代に置いて行かれる旧世代と巣立っていく新しい世代の入れ替わりを傍目で見ながら、第一次産業から第二次・第三次産業への変換と云う産業構造の枠組みの歴史的変動の時代を背景に、疲弊していく農家の跡取りと云う問題を、一人の戦争未亡人の目を通して描いている。

 物語の粗筋は、凡そ三つの家族と三世代にわたる複雑な人間模様なのであるが、簡単に要約すれば、本家と分家、本家の当主の妹の嫁ぎ先の家族の合計15人の人間模様であるが、それに本家の当主の離縁された妻とその娘も出てきて、この娘と本家の長男の縁談話縁談話が経糸となる。
それでは横糸は何かといえば、町の新聞記者から持ち掛けられた縁談話を取り持つて仲人の役を果たす先の世話好きの戦争未亡人と、家庭ある新聞記者とのロマンスである。いはば新聞記者と「叔母さん」との間の公然たるロマンスは、若者たち二人の縁談話が結実するに至るまでの間だけに成立し得る実に儚いものなのである。「鰯雲」というタイトルの由来は物語が春ころにはじまり秋に、澄み切った透明な空に鰯雲が棚引くころ大団円を迎える、という意味なのだろうかと解釈しておく。

 物語の詳細は省く。成瀬は後年の『娘・妻・母』などと同じように、「妻」と「嫁」の言葉の定義を巡る、時代の痕跡が与えた解釈を通じて戦後の人間模様を描こうとする。分かりやすく言えば「嫁」とは家族制度の下で家と家との婚姻関係から生まれた女性の定義の仕方の一例であり、「妻」とは戦後の民主主義下の社会の中にあって、新しい個人と個人の関係が生み出した女性という言葉の定義なのである。つまり女性は「家」に嫁いでいくのではなく、人間としての「夫」に嫁いでいくのだという云う含意が了解されていく終戦直後の未だ固定しきってはいない社会の流動性が生み出した、当時としては極めて新しくもあれば革命的でもある概念だったのである。

 成瀬己喜男は、かかる戦後の嫁と妻と母の物語を、雄大な相州の山並を控えた相模の農村風景の中に描いた。田植えや秋祭りの様子、家普請をするための土を突き固める数え歌など、実に華麗なかっての失われた日本の映像である。日本はこんなにも美しかったかと、感慨に堪えない。成瀬の本作は、まるでルキノ・ヴィスコンティの『山猫』に匹敵するような華麗な歴史絵巻であり、失われた東京近郊の農村生活の四季と伝統行事を描きとどめた風俗映画の記念碑であり、将に動く映像の文化財と云った趣なのである。こうなるとしばしば類似性を指摘される小津安二郎の世界が造りものじみて感じられてくるのはやむを得ないことであって、時代世相と人間模様をともに雄大なタブローとして縦横に描きうるかとなると、小津映画がとうていなしえない不可能事であり、セット撮影やカメラの様式的構図にに拘った小津映画の限界を感じてしまうのは、映画ファンとして所詮はないものねだりなのだろうか。

 淡島千景が実に良い。外見は新しいようには見えても農村の伝統的な生き方に首までどっぷりと浸かり、それは思想というよりも百姓の体臭――小作的感性と云うよりも庄屋的鷹揚さ――といった存在様式にまで一体化されたものでありながら、彼女は彼女で時代の移り代わりを正確に読んでいる。彼女が農地改革によって没落した本家の長男や次男の縁談に理解を示し、理解を示すだけでなくおせっかいと思われるまでに積極的に加担したり、またこのままでは家のしきたりに押しつぶされるほかはない休暇に生まれた本家の三男の自動車工としての自立や、分家の一人娘の大学進学に理解を示すのもそうした理由による。それ以上にこの女性が新しいのは、妻ある新聞記者との愛を、「不倫」とか「恋愛」いうイデオロギーや概念を介在させることなく、この世では「鰯雲」のように儚いこの世の現象であることを無常観のなかに容認しながら、自らの愛の在り方を、自らの自分とはなぜ存在するのかと云う自存への問いかけに重ねて素直に首肯し得ている点である。この映画には「不倫」という言葉は一言も出てこない。不倫、不倫と大騒ぎする最近の世代よりも終戦直後という時代は随分と新しかったのだなと、思った。

 いつも思うことだが、成瀬己喜男の世界は、こんな映画もあったと思わせる驚きにある。しかも見るたびごとに、この映画こそ最高傑作ではなかろうかと思わせるほどの出来栄えなのである。晩年の成瀬の映画などを見ていると、まるで時代に抗うかのように簡素な美しさを目指したかに見るのだが、実際はなかなかにカラーのワイドの画面で、やろうと思えば時代と歴史、世相と一体となった、現代風俗映画にして同時に歴史小説であるという、彫琢された複雑であり且つ深い人間像も描きうる作家なのである、と云う事を改めて感じた。

 淡島千景が、恋をすると決めたなら一途に生きる女の意地を、哀切に、しかも実に華麗に演じている。この女優はメロドラマが得意なのに女性としての変な色気がなくて、いっそ中性的なともいえる感性は江戸前の灰汁の抜けた色町の通人か、と思わせるものがある。つまり都会人のものなのである。それを農村の田畑や囲炉端にモンペ姿で座らせて不自然に感じさせないのは流石である。相手役の新聞記者を演じた木村功のどこか頼りない、善良さと見分けがたく入り混じった男の卑怯さも同時に演じ分けていて、日本の男児たるもの、その正味いかほどのものであるのかを感じさせて説得性のあるものにしている。 卑劣さとは、職業人として未亡人を利用した面があった、という意味である。

 この映画は素直に生きた中年男女の生き方を通じて嫌味というものを感じさせない。

 二人の別れは唐突である、小田急線沿線中ほどにある新聞社の厚木出張所が横浜支局の管轄であり、農村風景を新しい女性の生き方を絡ませて描いたルポルタージュが評価されたのか、東京の本社の転勤するのだという。当時でも新宿まで30分ほどで行けたはずであるから、厚木と日比谷、丸の内との断絶感は最近の観客には理解し難い論理だろう。
 つまりこれはこういうことなのだ。――距離が遠い近いの問題ではなく、農村にいきるしかない女と、都会人は相いれないと云う事なのだ。頭脳明晰で新しい時代の思潮を知性としては受け入れてはいても農村に生きるものの論理からは離れられない女性と、土地とか資産とかいう伝統的な属性に頼ることなく自らの身体と能力だけを元手に生きていく戦後ますます普遍化していく働き方のタイプ、ゲマインシャフトに対するゲゼルシャフト時代の勤労者の論理は相いれないと云う事なのだ。
 
 つまり口では体裁のいいことを言っていても二人のロマンスは終わったのである。

 恋の終わりを予感しながら、一度でいいから日比谷の新聞社の前に自分を立たせて欲しいという願いを語る女としての哀切さがたまらない!異なった環境や人間組織の中においてみなければわからない世界があるというのだ。その世界は決して想像力を介して手の届くようなものではない、時代と時代の裂け目なのである。恋や愛などと云う事ではないのである。

 森繁久彌などとの共演で有名な『夫婦善哉』などによって淡島千景の魅力については知っていたけれども、他の女優では感じられない都会人としての魅力を改めて見せつけられる思いであった。彼女の魅力の不思議さは男に尽くして尽くして尽くしぬいて、悔いることのない女の哀れさと愚かさを演じながら、みすぼらしさが少しも感じられないことだろう。それは特殊な世界に生きる者の理知と云うものでもあろうし、素養やたしなみと云うものでもあろう。あるいは日本の古い女を演じるという様式的な卓越の中に個人的な柵を超えるからでもあろうか。つまりこの映画のなかにおいて、淡島はモンペ姿で出てきて、田を耕したり台所で炊事をしながら働く風景ばかりが描かれているにも関わらず、生活の匂いがまるでしないのである。かって未亡人のよろめきドラマの中に、腰まで水田に浸かって働くヒロインが描かれたことがあったであろうか。
 淡島千景、万歳!

淡島の旧友を演じる新玉美千代もまた美しい。映画では詳しく描かれていないが彼女もまた戦災未亡人なのかもしれない。というのも現在料亭の女将をしている彼女には新興の実業家がつかづ離れずのようについているからである。今や料亭のほかに映画館や自動車学校など手広く広げている様子が描かれている。戦争は終わった。過去から恩恵を受けたものはともかく、今や一転した蘇りの中に彼女はある。旧家の本家や分家の人々とは何たる違いであろうか。彼女の存在はこの映画の中ではまるで終戦直後の自由さを守護する女神でもあるかのように、陰に陽に友人の未亡人を励ます姿は美しい。
 おそらくこの映画で一番美しい場面は、二人の友情かもしれない。特別のことではなく、気が付いたら二人だけがそこにいたというような場面で、二人はしみじみと自分たちがほかの人たちとはズレてしまった存在であることを妙に納得しあう場面がある。人間の持つ孤独さが深々と身に響いてくるような名場面である。それは自分であることを探し求め、自分であることを受け入れ、自分は自分でしかないことを理解し得たもののみに固有の哀しみのようなものなのである。
 こうした際立った個人性の孤独を描くためには、新玉美千代のような特別な美貌を必要としたのである。美しい女優さんであるから選ばれたのではない。孤独や寂寥の持つ卓越を描くためには彼女の美貌を必要としたのである。こうゆう役割を、例えば森光子のような女優さんに演じさせたのでは適切を欠くというものなのである。

 映画の途中で出てくる、登場人物たちによって耕される農地を背景に、旧型のロマンスカーの連結車両が走る姿が小田急沿線の風光とともに今はひたすらに懐かしい!彼女たちが眺めた車窓の風景から凡そ十年の後私もまた同じ車両の同じ窓辺に寄りかかって、本厚木、厚木、伊勢原といった高度成長期の歯車が廻り始める頃の日本の風景に立ち会うことになるのである。

 
【追記】 亡夫のお墓参りのための豪華な花束を持って野道を歩く最後のシーンの解釈について

 一応の表面上の解釈は、亡夫の夫の霊に操を尽くす、というありきたりの解釈である。普通の人間としての倫理・道徳の世界に生きていく決意であるかに見える。
 しかし戦後長くひきづった傷痕は、一人の男をかけがえのない形で愛いすることによって、「戦争は終わった」と云う意味でもある。終戦直後という価値や規範が流動的な時代、二つの時代に挟まれた過渡的な一時期もまた、秋空に棚引く鰯雲のように儚くも消えていく、と云う事でもある。
 さらにこの墓参りの場面の解釈は、亡夫もまた喜んでくれると思うと云うヒロインの述懐にも似た台詞があることに注目したい。自分が一人の男を愛することによって得た、世俗を超えた人間であることの存在の秘密、それは一時、女しての幸せの中に本心と区別させることなく偽りのない生を選択し主体的に生きることであったが、その女としての喜びもまた、墓石の下に眠る夫も喜んでくれているに違いない、と云う確信なのである。ここには日本人の霊魂と云うものが、浄化されていく、古来「もがり」と呼ばれた死者を祀る儀式の痕跡までも追体験されていたに違いない。つまり愛するという行為は、死者の霊を慰める、という意味なのである。死者は無限の傷痕の過程で悲しまれることよりも、愛の中で真の癒しを得るという意味なのである。
 日本人の祖先崇拝の霊は、かくも優しい!日本人には宗教は必要ないはずですね!日本の農民のヘシオドス以来の叙事詩の記憶をとどめた成瀬映画の意義は高い。