アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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村上春樹問題?――私の村上春樹五番勝負 アリアドネ・アーカイブスより

村上春樹問題?――私の村上春樹五番勝負
2013-10-17 11:45:36
テーマ:文学と思想


毎年この季節になると、ここ数年、ノーべル賞と村上春樹の話題が日本人にとって悩ましき問題?の一つになりつつある。悩ましいとは言っても良い方向の話題なのであるから悩む必要はないのかもしれないが、少なからぬ日本人が落胆し、毎年、来年こそはと期待を繋ぐ年中行事と化した、ということなのだろうか。

村上春樹問題?の悩ましさの理由のひとつは、古来より割合明確であると信じられてきた文学と云う概念が曖昧化し、揺らいでいくなかから、こうしたもののみが文学であると勘違いしたことだろうか。勿論、村上春樹が自身の小説のみが文学であると強弁しているわけではない、なぜなら彼は人柄としては大変親切で謙虚な性格であるからだ。つまりこういうことだ。――かって吉川栄治の宮本武蔵野村胡堂銭形平次の読み物を、昭和30年代の純文学?の全盛期においてすら誰もが文学ではないなどとは言わなかったように――吉川や野村本人自体もまた自分たちの志向する方向のみが文学であるなどと考えもしなかったであろうし、予感としてすら感じてはいなかったであろうけれども――、村上春樹の小説が文学でないなどと主張するつもりはないけれども、村上春樹の小説の様なものだけが文学なのではない、と思っているだけなのである。要するに文学のエリアに関する問題なのであるが、この違いは大きい。

村上春樹と云う人は文学論を語らないという特色があるそうだが、これは彼の謙虚な性格とも相俟って何やら用意周到的に神秘的である。しかし元々語るに足るような文学論など人としてないとしたならどうなるのだろうか。つまり元々語るべき文学論の持ち合わせなどないとしたならばどうなのだろうか。村上の読書履歴などをみると意外に脆弱なのである。

例えば、近年、彼が盛んに持ち出してくる「総合小説」――だったと思う――と云う普段の謙虚な彼にしては珍しい水際立つ発言にしても、中後期の彼の長大な長編小説を読んだ限りでは判然としない。判然とするというご意見をお持ちの方は是非にご自身のご意見を開陳していただきたい。私が読んだ範囲では、通常の語り物の中に、ドキュメンタリー風の記述を散りばめたというだけのことではないのか。文体と文体、文体と思想を繋ぐ必然性が感じられないのである。言葉が不用意なのである。

ヨーロッパの文学にはこれとは別に「全体小説」と云う概念があるが、登場人物が一説によると一千人にも及ぶといわれるプルーストの『失われた時を求めて』は規模の雄大さや世紀末から戦間期に至る諸階級の栄枯盛衰を描いた壮大な歴史絵巻と云うだけではなく、根本には我々が通常懐いているレアリティの概念についての根本的な懐疑に根ざしている。つまりプルーストに固有の文学観とは、私たちが言語にとどめえ、それがリアリティだと信ずるような時の感覚こそ偽りの時間だと言うのである。プルーストは自分の文学観をしばしばレントゲン写真に譬えているけれども、こんな醒めた人間理解を持ったなら、そもそも人としてこの世を生きると云う事が出来るのだろうか。日本人の私はそう思う。


20世紀文学のもう一人の巨匠、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』もまた「全体小説」の一つと云われるが、これはプルーストが近世から現代に至る長大な歴史から語り手「私」に属する、ある固有の時間幅を切り取ってそこに様々に生起する人間群像を時間のコンテキストから読んだのとは趣を異にして――サルトルの主張する「作者」と云う名の「神」の座からではない――アイルランドの首都ダブリンの一日の出来事を、当時の新聞記事の三面記事を利用してまで詳細かつ微細に、他方では主人公の平凡な一日の出来事をオデッセイアの十年間の漂泊の旅に比肩させて再現すると云う途方もない小説なのである。ここでも登場人物は数百人以上に及ぶと思われるが、規模の上の壮大さよりもジョイスの懐いた特異な言語観にある。通常の客観主義的な小説概念においては無意識の前提として決して問われることのなかった「文体」が可視的な対象とされ、文体もまた登場人物と同等の権利を持った主人公であるという、日本人には思いもつかぬ発想がここにはある。

要は、村上がプルーストジョイスの文学について何かを彼が知っているかどうかが重要であるのではなく、文学者として発言する場合においては何を踏まえての発言であるのかと云う点について、現代の作家は無自覚であってはならないのである。特に、村上のようにオピニオン性が高い作家の場合、これはないだろうという気がする。もう少し言葉や発言を大事に扱っていただきたいのである。文学とは、何か独創的な新発見!や新発明を披露するような場ではないのである。綿々と伝える言葉と文学の伝統の中から、ということはあくまで歴史的個人の言説と伝統を踏まえて発言や言表と云う行為は出てくる!のだと思う。
また、海外の経験も長く言語を自在に操るかに見える彼が、現代アメリカ文学に堪能であるはずの彼が、ホーソンメルヴィルとまでは言わないにしても、現代アメリカ文学の知的源流とも精華とも云える、幻想とミステリアスの作家、ヘンリー・ジェイムズの文学について語らないというところも大変に不自然なことなのである。たしかに、どの作家を好むかは個人の自由であるが、文学の世界とはかかる「個人の自由」などが通用しない世界なのである。言葉が自存的な秩序を持った唯一の世界なのである。そうした世界で生きているという自覚を少しでもいいから持っていただきたいのである。

また、彼としては機会をとらえては好んで言及することの多いフランツ・カフカの文学についても思い違いがあるように感じられる。ある朝目が覚めたら毒虫になっていたとか裁判所に引き出される被告になっていたとか、理由のない求職活動に狂奔する主人公の不確定性な命運を描いた『変身』・『審判』そして『城』などの文学と、主人公が誰からも無条件的な好意をもって受け止められる『ノルウェイの森』の作家に何か共通するものがあるのだろうか。寄る辺ないディアスポラの文学としてユダヤ人のホロコーストを予見したといわれるカフカの明日のない絶望感に満ちた無機質の文体と、愛とロマンと冒険の紆余曲折はあるけれども読み終わってみれば作者だけは安全なところにいたと云う事が結果として暴露される、村上春樹の文学と何か共通点のようなものはあるのだろうか。

とは言え、現代日本を代表する作家として優れていないわけではない。
私の好きなベスト5を選べば次の如くである。

1・短編集『中国行きのスローボート』
2・『風の歌を聴け
3・『ノルウェイの森
4・『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド
5・『羊をめぐる冒険

村上の初期の作品には後年の劇的な主人公の波乱万丈さとは正反対の、市井の片隅で生きる男女の密やかな溜息や生き様を描いた作品が多い。名作『蛍』などを含む初期の短編集にはとりわけその印象が強い。『中国行のスローボート』は、疾風怒濤の青春像とは似ても似つかない、それを端で指を銜えてみるほかはなかった青春群像を描いている。
彼らには自分自身を語る正統化された「言葉」がない。自分自身を語る言語がないのである。自分自身の一番切実な言葉を語り、そして聞くことが出来るのは、代弁者としてん深夜のディスクジョッキーであったというイロニーが、『風の歌を聴け』のテーマである。この小説が新しいのは、自己を語ることにおいては、それが単にネガティヴな意味であっても、多弁なはずの文学青年が大きく時代背景から遠ざかり、従来にないものの感覚で村上春樹と云う作家が語った、と云う点である。文学は漱石や鴎外のように正調にも、丸谷才一のように裏声でも語ることはできる、しかし村上春樹のように深夜DJの電波音の乾いた孤独音で語ったものはいなかったのである。
三番の『ノルウェイの森』は周知のように、疾風怒濤の三島や高橋和己ら60年代の文学以降に起きた、自己呪縛からの解放の文学である。村上の読者の多くが60年代を直接間接に知らなくても、そうである。村上春樹の文学が非政治的であったことは知られているが、この作品は言外的表現において、好むと好まざるとにかかわらず「政治的」な作品なのである。残念なのは、作者自身が最良の読者ではなく、この作品の意義を自己の意識の圏外に置いていることである。
四番の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は、主人公の正負二つの分身が描く、生から死と、死から生へと回帰する、決して交わることのない二つの物語である。村上春樹の幻想風の小説の中では純度の高い方ではないかと思う。
五番の『羊をめぐる冒険』は、初期の村上春樹が呑み仲間の一人としか考えていなかった「羊」と呼ばれ青年が主要でデモーニッシュな姿に成長する物語である。村上が「羊」に込めた隠喩は巧みであって、「羊」とは近世日本が受けた西洋文明の「洗礼」の象徴であるようでもある。もう一つは、『ノルウェイの森』などに描かれることになる戦後史の過去呪縛の象徴であるようでもある。すべては両義性において語られており、最後は「羊」の自己犠牲的な行為によって世界は救われるのである。
どうも村上春樹と云う作家はこの作品によって自己の使命を自覚したかの如くである。それでこの作品を五番勝負の中に含めたいと考えたのである。


村上春樹の文学の優れている点は、庶民の感覚を甦らせた点にある、とりわけ高度情報化社会における庶民の感性を哀歓をもって描き、広範な読者層に寄り添って歩いた、と云う点である。

庶民は言葉を持たない、と云うのは私の持論であるが、『風の歌を聴け』において何故真実を語る言葉は深夜放送のDJの乾いた機械音でなければならないのか、『ノルウェイの森』においてなぜ、ワタナベ君は閉ざされた電話ボックスの四方のガラスの箱の外の闇に向かって、届くことのないメッセージを語り続けなければならなかったのか、それは言葉を持たないからなのである。言葉を失った世代の哀れさを、情報化社会に生きる言葉を持たない庶民の哀れさを彼ほど身を挺し自らの上に描き切ったものはいない、これは皮肉として言っているのではない。 


 なお、ノーヴェル賞の選に漏れ続けることは、かってプルーストジョイスフランツ・カフカも、一度としてノミネートの話題にすら登らなかった作家たちである――20世紀の三大文学のいずれもがノーべル賞とは関係がない――ことを考えると、村上が選に落ち続けるというのは不名誉、なことではあるまい。