アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画『ハンナ・アーレント』アリアドネ・アーカイブスより

映画『ハンナ・アーレントアリアドネアーカイブスより
2013-11-08 11:34:49
テーマ:映画と演劇






・ この映画もまた、そして背景にあるアーレントアイヒマン裁判に向けた意思が誤解されやすくしてしまったのは、映画にもあるキャッチフレーズ、「悪の凡庸さ」にある。アーレントが伝えたかったのは、20世紀と云う大量殺戮の時代の到来が、特別の善であるとか悪であるとかの思惟や意思によらなくても、日常性の地平において起こりうるもの、と云う認識にあったのだと思う。アイヒマンは高級官僚として自らはユダヤ人の大量殺戮に特設手を下すことなく、銀行員の帳簿記入のように、どの場所にどれだけのグロスとしてのユダヤ人を移動し、移動量の需要と供給のバランスを考えて生と死の会計簿を付けたに過ぎないといわれるのだが、一人の人間が惨たらしく死んでいく様を人間的な感性のレベルで経験することなくボタン一つで行われた操作、アメリカ合衆国で行われた広島と長崎における原爆投下の現実が、類似の現象、その極限態であることはあきらかだろう。この映画には、アメリカの民主主義に対する素朴な賛嘆と賛美とが描かれているけれども、それは片手落ちというものだろう。はたしてアーレントが素朴にアメリカの現状に満足していたかは疑問だろう。その疑問が隠微な形で、隠喩と云う形で、アイヒマン裁判への傍聴をとおしてアメリカを含む20世紀社会全体への告発に連なったのではなかったか。凡庸であること、それは人間性に向けられた人間であることへの否定、最も重大な罪ではないのか。

 アイヒマン裁判本質は、この映画では正面から取り上げられることがなかったハンナの夫ハインリッヒの、アイヒマンを裁くありかた、ニュルンベルグ裁判や東京裁判のレベルで裁くことの不当さにある。譬えアイヒマンが極悪非道の人間であろうとも、スパイが拉致するようなやり方でイスラエルの法廷に連れ去り、宗教裁判のような申し開きが立たない、最初から結論が出ている場所で、つまり戦勝国と敗戦国と云う構図の中で裁くことの、裁きうると自負しうるものの資格対する考察である。アイヒマン裁判にかけていたのは、暴きうると信ずるものの資格、アイヒマンを見せしめの対象として処分することではなく、人間として裁くという過程を経ることなしには、アイヒマン裁判から如何なる教訓も得ることはできないというアーレントの思想があったのだと思う。アイヒマンを人間として裁くとは、裁き得る立場にあるものが裁かれる対象とは同一のレベルにはあってはならないという点である。対象を裁きうる行為が人間のものになっていなければ、アイヒマンを裁くという行為も完結し得ないはずである。

 しかしアーレントの側においてもそう口で言うほど高貴で公平な立場を取りうるものでもなかった。そのためにはドイツを逃れ、一時居留区に捕囚された彼女の経験の生々しさが、そうした白々しい一般論では表現できない隠微な情念を与えた。それが悪の凡庸さ、と云うキャッチフレーズである。この分かりにくい表現、誤解を招きやすい表現が、多くの友、多くの同志を彼女から立ち去らせた。まず公明正大の分かりやすいアメリカ民主主義の友達を、そして第二に祖国イスラエルの建国に邁進する内外の友を!

 悪の凡庸さとはなんであろうか。彼女がアイヒマン裁判を傍聴する過程で直面したのは改めてナチがなしえた普遍的人類の罪などと云うことだけではなかった。ユダヤ人の一連の囲い込み政策の中で行われたラビたちや地区委員、一部の上級ユダヤ教聖職階級が行ったナチへの同化的姿勢にあった。一方的に被害者と思われていたユダヤ人集団の中に民族への裏切りものが、かってキリストを売り渡したユダのような公然とした形においてではなく、加害者と被害者の奇妙に存在論的に混淆された中間的内部組織を、ナチと云う絶対的な悪と対峙する過程でユダヤ社会が生んでしまったという点である。つまりナチズムの強権的暴力組織だけではなく、ユダヤ社会の中に従順な羊のようにガス室に追い立てられていく運命を宗教的摂理の如く同化する教導的内面のユダヤ的形成力がなければ、ユダヤ人の死の葬送に向けられた、あれほどの行儀の良さ、礼儀正しさはなかったに違いない、とアーレントは考えたのである。

 悪の凡庸さとは、この映画が伝えようとしたように、20世紀と云うテクノロジーの発達等によって、特定の憎しみとか憎悪とかの人間的な感情なしに、誰でもが日常的な地平において悪を犯しうる、と云うことだけではない。むしろ、日常の必要と云う条件にだけ拘ってたら、日常と非日常の垣根が壊れた20世紀の環境的世界においては、人間は善意の人間であるままに悪魔の巧緻(M・ウェーバー)に捕らわれてしまうかもしれない、と云う点である。ユダヤ教の高級聖職者の裏切り行為は、必ずしも彼らの主観的意図とは整合していなかったのかもしれない。彼らは彼らなりに、絶対的な武力的な格差の中で可能な選択を、よりよい小さな被害を望んで、結果的には600万人の殺戮と云う大惨事に手を貸しててしまったのであるのかもしれない。要するにナチは最小限の官僚組織で、ユダヤ人社会の同質的な組織を利用することで広範な支配を易々と遂行できたということである。ここには恐ろしい哲理がある。もし人間が、生活の必要と十分と云う条件でしかものを考えなくなると、口にこそいわねドイツ国民の大多数がナチズムには絶対的な意思を持ことがなかったように、ユダヤ社会においても自らの民族の地上からの消滅と云う命運を、結果としては受け取るという、奇妙で皮肉な事態が起こり得る、と云う事である。

 またこの映画では正面からは描かれることはなかったが、ハイデガーとの関係である。ハイデガーと彼女の関係は何をもたらしたのか。ハイデガーと人類の出会いは何をもたらしたか。実存が本質に先立つとは、先立って人間を善であると規定するものはないという意味である。それはサルトルが理解したように人間は反面、自由である、と云う事である。しかし投企的行為であるとか非投性とかの行為が恣意性の範囲にとどまる限りにおいては、容易に悪魔の巧緻に組み込まれてしまう、と云う意味も政治的レベルでは成立する。

 アーレントにはユダヤ社会とユダヤ教に対する絶望があったように思う。それがアイヒマン裁判を通じて彼女を徐々にユダヤ人の同質的な社会から離反させることにもなった。彼女はこの映画の中で、自分は一度もユダヤ民族の名において語った ことはないと云う。彼女は常にユダヤ人と人類の友人として知人として語った。この映画の一番初めの場面でアーレントの秘書兼友人である女性が言う。――「家族は神より与えられる。友人は自分の意思的な選択的な行為によって選び取る、と」。彼女は利害を超えた人間関係の可能性について言いたかったのである。

 ハンナ・アーレントアイヒマン裁判の傍聴とアメリカ社会に於けるその記録の公開において、アメリカの友人の多くと、ユダヤ人社会とすべての友人知人を失った。夫のハインリッヒは言う、――今回の彼女の行為に後悔はなかったか、と。アーレントの、アイヒマン裁判とそれをお膳立てした大衆社会に対する抗議は決して止むことはなかった。
 この映画の末尾の場面はこうである。――彼女は悪について考えた。幾度も幾度も考えた。その根源について、その由来について、引用は正確ではないことをお断りしておく。わたしは映画が引けての後、退場する観客で混雑するホールの長椅子に蹲りながら内側から湧き上がってくる身体の震えをどうすることもできなかった。