アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

フランクルの『夜と霧』について アリアドネ・アーカイブスより

フランクルの『夜と霧』について アリアドネアーカイブスより
2013-11-10 10:10:19
テーマ:文学と思想





http://ecx.images-amazon.com/images/I/41X13RTCGRL._SL500_AA300_.jpg


・ 有名なフランクルの『夜と霧』である。アウシュビッツの過酷な環境の中から奇跡的に生還した精神病理学フランクルの記録である。これを体験記と書きかけて、あえて「記録」と云う無機的な表現を選んだのは、体験なり経験は対自的あるいは対他的再現性と云うか、人間の生きる軌跡に伴う普遍的循環性を前提するのだが、フランクが経験したアウシュヴィッツの現実は、経験の普遍的構造を揺るがすようなものを持っていた。それはこういうことだ。――善であれ悪であれこの世にあるものは絶対的にと云うことではなく、何ほどか相対的なものなのだが、ナチズムがもたらしたものには限界と云うものがなく、善悪と云うよりも、善悪の彼岸、悪の無機性だった。善悪がないといことは、丁度未知の惑星に行って、水がない!と騒ぐようなものである。理解できない、あるいは理解を超えた人類の愚行というより、抒情的な理解を要しない数学的な論理のような自明で明快な、悪の具現であった。ハンナ・アーレントは形容する言葉を探して、悪の凡庸さ!と名付けた。

 あからさまに論理的、数学的な現実の出現とは、――アイヒマンの場合は帳簿的現実、会計係的小役人的現実と云うべきか――と云うべきか――人の理解を超えるというよりか、人の理解と云う行為を必要としない、あからさまな殺人工場の世界の出現である。そこでは全てが無価値のもの、無用のものとなる。選別された女性子供老人はガス室送りとなり、残りは番号付の捕囚となる。捕囚には生存率数パーセントと云う過酷なサバイバル劇が待ち構えている。フランクルはこれを三つの段階に区分けして、第一、不可解な現実を受容する段階、第二、人間的な感覚的属性を一つ一つ無くして無関心、無気力になる段階、最後に存在と非存在とのシーソーゲームを遂行するか放棄するか否かの、サバイバルの段階に区分した。

 ここからアウシュビッツに固有な出来事とは、悪の無機性は、人間を原初的な存在へ、つまり仏教などでいう五欲などが淘汰されて、生存に必要な食欲と動物的な感覚だけが残るという点である。フロイドや現代の精神病理学は汎性欲論j的な立場にたって人間の行動や意思を性衝動によって説明したが、どうやらここでは精神病理学以前の存在に人間は還元されてしまうということらしい。つまりアウシュビッツン現実は不埒な野心や不道徳性が支配したにもかかわらず、性的なエピソードには意外と事例を欠いていたと云われるのである。

 人間とは呼べない最低の環境的世界の中でフランクルが本書で提起した意義は、にもかかわらず、最低の環境の中においてすら人は意味を求めて、それ故にこそ愛する者の記憶を胸に生きた、過酷な現実の重みを愛の記憶によって支えた、と云う事である。ある日、フランクルたち労働に順じている者たちの間に、「こんな姿を家族にだけは見せられないな」、などと話し合う場面がある。それは彼らの間に密やかな笑いさへ誘うユーモラスな場面である。この笑いの前提には、家族たちは自分たちよりはもう少しましな環境にいるに違いないという、願いと云うか祈りのようなものがあったと思う。しかし実際には彼らが気遣った妻や子供や両親たち無力なものたちは、数か月も前殆どが焼却炉の煙と消えていたのである。
 しかしフランクルには、この神ですら泣き笑いしたくなるような不可解なアウシュビッツの現実が、臨場感をもってすぐ眼前に妻の幻影をまざまざと現出させると云う、稀有の体験をする。こうして二人の間に長い対話が始まるのだが、現実を忘れ過去の思い出に浸るというよりも、存在しているかどうかなどはどうでもよくなるほどの一つの境位、もう一つの存在と非存在を超えた彼岸、善悪の彼岸なのである。つまり愛とはそうしたものであること、古来文芸や伝説に伝承的には語られてきたが愛が持つ絶対的な性質が語られるのである。同様のことをハンナ・アーレントもまたフランスでの保護監禁所で受けた絶望的な経験から語っている。あの男まさりの意志の強いハンナ・アーレントにおいてすら、死への急傾斜を滑り落ちても仕方がないと思わせるようなタナトスの誘惑、打ち砕かれた経験はあったのか。アーレントを最終的に救ったのは、自分を必要としている人がこの世に、間違いなく一人はいる、と云う思いだった。

 フランクルの本が教えているもう一つのことは、過酷環境の中における耐性の問題である。アウシュビッツの捕囚体験が、第一段階から順次階を進むにつれて、淘汰されていったのは、内面化する能力のないものたちだった、と云う。一見、頑強で屈強そうにみえる、いわゆる目鼻立ちのはっきり した性格のものほど、過酷環境の耐性が少なかった、と云うのである。言い換えれば環境に合わせ日常性との距離のない一致した生き方をしてきたものほど氷河期の耐性がなかった、と云うことだろうか。ちょうど、頑強で巨大な恐竜が氷河期の到来に耐えられなかったように。
 この点はもう少し敷衍して考えれば、もしかしたら日常性を律法と云う行為で容易に体系づけられているユダヤ教の脆さを説明する一つのヒントを与えるのかもしれない。同様にカソリックの側からのナチズムに対する抵抗はほとんどなかったとも言われている。抵抗どころが迎合的姿勢すらあったと証言する人は多い。実際にアイヒマンがアルゼンチンに逃れ得たのは手引きするものがいてバチカンの抜け道を利用してであったと云われている。カソリックヒエラルキー性とナチズムとのそれに類似点があったのかもしれない。わずかにプロテスタントの一部のグループだけが頑強な抵抗を示した。カール・バルトはその典型だといわれる。それが固有の地上の王国と精神の王国の二元的志向においてものを考えるプロテスタントの流儀と云うものだろうか。しかし、ナチズムに対してキリスト教の抵抗は総じて弱かったとは、バルトの弁である。


 環境が人間を作ると近代の刑法学は教える。しかしフランクルの本を読んで読者が学ぶのは、残念ながら人間には二種類の人間がいるという現実である。高貴な人間とそうでない人間とである。ナチズムは犯罪者、社会のはぐれものを積極的に活用した。人間の品性のなさ、下品さを政治的に利用した。ヒトラーをはじめ指導層の多くは劣等経験を過去に持つと云う。キリスト教ルサンチマンの伝統の中で苦労が人間を必ずしも豊かにしない事例である。アイヒマンは死刑判決を受けたのちもひるむことなく、記者団にあのよで会いましょう!と不敵に語ったという。ここには自らが小市民的な枠組みの中で犯した、命令と義務の遂行において、条件と環境が変われば誰もが多少はそうありえたかもしれない小市民の肖像、官僚制と大衆社会下での普遍的な現実を語っている。より正確にいえばこうである。――あなたたちが私を裁きうる根拠とは何か?見せしめ裁判に晒されたものの言いそうなセリフ、捨て台詞である。