アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『ハムレット』 アリアドネ・アーカイブスより・

ハムレット
2013-11-16 13:51:29
テーマ:文学と思想




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・ シェイクスピアの『ハムレット』の不思議さは、ハムレット家の愛憎のドラマが何一つ事実のレベルでは明らかにされない点である。なるほど後半まで進むと、クローディアスの告白などを通じて亡霊の遺言通り兄弟殺しの犯人であると云う事が分かりはするが、これとて全てをハムレットの意識の世界に生じた夢幻能の如きものだと考えればやはり真実は歴史と伝説の霧の中なのである。ハムレットを夢幻能の如きものとして読んだらどうなるのだろうか。


 気になるのはシェイクスピアが開幕早々、ハムレットをヴィッテンヴェルクの学生であるという点を強調している点である。この大学はマルティン・ルターが「95か条の論題」を聖堂の扉に掲げて宗教改革の口火を切ったところで有名なのであるが、これは暗にハムレット王子がゴリゴリの教条主義者であることを語っているようだ。
 先王の葬送の儀式がそのまま婚礼の儀式に取り替わるさまも異常なら、それに抗議するハムレットの態度も型通りのものである。通常ハムレットは内省の人と考えられているのだが、内省の人とは自分自身の感性に基づいて考える人のことである。シェイクスピアが描いたハムレットは、そうした自然性を犠牲にする観念の人、つまりフランス革命以降ヨーロッパの近代社会の中で特徴的に生まれてくる、現実そのものよりもそれを自らの卓越した観念によって裁断する悩める近代性の誕生であると読めるのである。

 
 しかるに、ハムレットより豚畜生にも劣ると非難される王と王妃は劇ではどのように描かれているのだろうか。まず簒奪者の王・クローディアス。彼の王位簒奪の事実は置いておくとして、まず開幕早々挙げる彼の第一声は温厚で善良な賢王を演じているかの如くである。かれが何故王位を簒奪したか、その事実の真偽は別としても情報は一方的にハムレットの側から伝わってくるばかりなのである。事実の真偽を論じる前にハムレットの告発がまるで品性を欠き後世のデマゴーグじみているだけに、仮にハムレットの言うように犯罪の事実を認めるにしても、王が交代しなければならないデンマークの国政にかかわる事情など一切が分からないのである。なぜこういう事を書くかと云うと、劇の外部で隠滅する国境周辺の事情、ノルウェイの王子フォーティンブラスの行動やポーランドの動向など無視しえない要因をシェイクスピアが書き忘れていないからである。つまりこの悲劇はエルシノア城の城郭内と云う密室の心理劇と云う側面のほかに、政治劇としての大きな視野を最初から持っているのである。


 クローディアスが公正な王でさることは開幕早々家臣一同が会する婚礼の場で後継者はハムレットであることを明言していることでも示めされている。何らかの理由で、国内外の不安定要因があって、それがクローディアスを中継ぎの王として迎えるという旧王妃側の配慮もなかったとは言えない。実際に今までのところで理解した範囲でのヒーローはルター型の直情的な性格であり、現実そのものを理解するよりも、より高い観念性の立場からものを見ることを好む理念型の人間であり、こうした性向の青年に国政を預からせるにおいて王妃や家臣団たち、そして国民の一部が危惧を懐いていたと云う事は十分に考えられないことではないだろう。実際に後段で、王妃の私室で自分の行動を息子から指摘されたとき、王妃は理解できずに「何のことでしょう」と臆することなく尋ねるのである。激したハムレットの批判が容赦のないものであることを理解すると――つまり親子の情と云う人間の自然さなど何の評価もしない、自然性を犠牲にすることに対して何の躊躇もしない近代的な人間像であることを理解すると、彼女はあらゆる弁明を諦めてしまうのである。


 クローディアスはこの他にも、本音と建前の使い分けと云われては身も蓋もないのだが、終始ハムレットの言動には寛大であり、寛大を通り越して何か後ろめたい事実を掴まれているかのように遠慮がちである。有名な自分の言動をパロディ化された劇中劇にしても王としてそれが出来たはずなのに優柔不断であり、説教は妻に頼むというだらしなさである。つまり言いにくいことは母親にに言わせる現代の父親のようである。彼は辛辣な当て付けである劇中劇の途中で気分が悪くなり退出したと云う事実にしても、それは事実であったからではなく、そのように観られているということに真偽は別として堪えられなかったのである。ハムレットの空っぽの頭脳が考えたようにこれで事実が証明されたわけではないのである。むしろ明らかにされたのはハムレットが狂人を装ったテロリストであったことであろう。これでは見え透いた狂人振りの演技が何の役にもたたなかったのである。


 終始受け身であったクローディアスはここにきて初めて反撃に出る。つまり身内の厄介者ではなく他なる者として、ハムレットが国家に対するテロリストとして危険であると判断したからこそ、王子のイギリス派遣を提案するのである。


 クローディアスがありふれた悪役には描かれていないのは、彼が一人祈る祈りの場面に明らかである。たまたま通りかかったハムレットは千載一遇の機会とばかり刃をもって近づくのだが、その祈りが真正のものであるがゆえに殺せないのである。ハムレットはここで、祈る人間を殺害することは魂が天国に行くので復讐にならないなどと分かりにくい理由で説明するが、彼は悪役は殺せても人間は殺せないのである。むしろ予期しなかった偶然とはいえ、王妃の私室で物陰に隠れた善良な老臣ボローニアスを殺害したとき、自分こそが許されない最低の人間であることを理解したはずである。復讐とは、もともと両面成敗的なところがあるけれども、少なくとも挑戦者は倫理的には優位に立っていなければならない。ボローニアスの殺害は少なくともその前提がハムレットの前では崩れたのである。


 それでは改めてハムレットとはどのような人間であろうか。清濁併せ呑むのがこの世の盃であるとすれば、人間の自然の論理よりも観念や教説を優先して考えるのがハムレットである。それは思春期前期の特徴である。そういう意味ではハムレットは母親は母親であり女であると云う事を認めることのできない少年として登場する。その少年は愛するオフィーリアが自らに差し向けらられた密偵であることを許せなくて彼女を死に追いやってしまう。彼は彼女が死んでみて初めてこの世にかけがえのない存在であったことを理解するようになる。


 愛を理解することによってハムレットは母をも許しうるような青年なっていいる。最後のレアティーズとの決闘の場面では母は息子の額の汗を優しくハンカチで拭う。許しあわなければこのような行為は出てきはしない。最後に母親は毒の入った盃を飲む。王の制止にもかかわらず「いいえ、飲ませていただきますわ」と云って飲む。ローレンス・オリヴィエの演出では王妃はそれが毒であることを理解してハムレットの代わりに飲む。シェイクスピアの脚本を読む限りそのようには読めないのだが、実際のシェイクスピア時代の演劇においては観客は多くのことを既に知っており、こうした王妃の自己犠牲的なあり方においてみたと云う事は否定さるべきものではないだろう。ローレンス・オリヴィエの解釈は現代の演出家の解釈と云うよりは、テキストの中にある空白を当時の観客が見たかもしれない可能性において復元するという、理念的な読みの一つの在り方であると考えられる。

 
 今回、ハムレットを読みなおして意外であったのは、彼や同時代人の亡霊に対する考え方であった。日本であれば死者が夢枕に立つと云えば、それは真実の告知以外にない。しかしハムレットを襲うのは、これが真実の父親の霊であるのかどうかと云う深い疑念であった。
 ハムレットが復讐を遅延するのは、一つには父親の亡霊が真正の父親の霊であるのかどうかの疑念が去らないからである。考えてみれば、本当の父親なら自分の無念さだけを言い立てて、息子を破滅に追い込むような遺言を言うはずがない。復讐による人間の浄化と云うよりも、不自然で不可解な人間の死や言動だけを要求するこの霊は、結果としてみれば悪霊であった可能性が高い。


 こうして後段に見えるハムレットは、具体的には墓堀人夫との場面を経て、生死を超えた運命を達観するに至る。罠と知りながらレアティーズとの決闘の場に臨むのは、もはや小賢しい小細工や陰謀を超えて運命に身をゆだねるためである。それは決闘と云う事態を疑問視するホレーシオとの対話に明らかである。
 運命を甘受するとは、怨念や復讐を超えた死の受容がなされているということでる。生硬な思春期の感性の惑いとして出発した『ハムレット』は、青年期の愛の告別を経て、老年期の諦観をもって終わる。つまりハムレットの生涯は短いなりに、人生の諸l段階を駆け抜けるように、一応は一巡したのである。


 王妃もまた期するものがあってこの場に臨席する。予期せぬハムレットの健闘は王側の陰謀を不自然に急がせる羽目になる。王妃は先手を打って毒杯を仰ぐ。それが王妃のなしうるこの世での最高の行為だったのである。息子の健闘を讃えて額の汗を拭う行為は、あのキリストの受難の行為を、十字架上を滴り落ちる血潮を吹いとるピエタの構図を彼女の幻の中に幻影させてはいなかっただろうか。こうしてハムレットも死ぬ、運命に委ねて。復讐や怨霊の怨念を超えて運命として死んだときハムレットの生涯は初めてシーザーやアレクサンドロスに比肩する英雄の生涯として完結するのである。
 それゆえ、惨たらしい殺戮がなされた場を祭壇の場としして乗り込んでくるフォーティンブラスの口上はいやがうえにも荘重に響くのである。棚から牡丹餅の心境の彼としては何とでも云える心境になっているのだろうが、そういうことは口にしてはならない。

 「四人の体長を選び、ハムレットを武人にふさわしく
 壇上に運ばせよう。彼こそは、時を得れば、
 たぐいまれな名君ともなったであろうに。彼の死を弔うには、
 軍楽を奏し、礼砲を放って、その悲しみを
 広く世に知らしめるのだ。
 遺骨をはこべ。このような光景は戦場にこそふさわしい、
 ここでは目をそむけるほどあまりに痛ましい。
 さあ、兵に命じて、礼砲をうて。
 (葬送の行進曲。死骸をはこびながら一同退場。そのあとで、遠くに礼砲の音)

わたしには、ワグナーのジーグフリートの葬送が低く響いている。