アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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糸島半島の姜尚中――日韓の狭間で生きる! アリアドネ・アーカイブスより

糸島半島姜尚中――日韓の狭間で生きる!
2013-11-25 20:51:41
テーマ:歴史と文学



 
http://www.bunkazai-koryu.com/images/flyer.jpg



・ 子供たちの同級生の母親がプロデュースしているというので会場の糸島にある東風小学校に出向きました。何冊かは読んでいますが、イメージとしては教養番組や美術番組でぼそぼそと語る、朴訥な語りです。言い換えれば、メディアと云う媒体を通して各自の印象の中で形作られたものです。ところがこの日は流布されている姜尚中氏のイメージとは少々異なりました。黒づくめの何時もの服装とは異なり、明るいグレーのスーツにノーネクタイの白いカッターシャツのまま、軽快なステップで壇上に登りました。その静かな語りは時に高揚し、視線を万弁なく会場の四方を確認するように見やりながら語るその語りは、力強く、説得的です。つまり共に悩みつつ語ると云うメディアが創った姜尚中像とはかなり違っていました。


会場となった糸島市 東風小学校講堂玄関

 

 この日の語りは、要点は二つであると思う。一つは、姜尚中氏が自らの立ち位置を語ったことです。自らの出自と実存のアンビヴァレンスを彼は、韓国は生みの親、日本は育ての親と語りましたが、それは流浪の民ユダヤがカナンの地を諦めるような悲哀が語られています。いわばエジプトを脱出したモーゼとその一行が偶像崇拝についいて深刻な論戦の末に深刻な懐疑に陥り派閥抗争の果てに粛清が行われた旧約の出来事を想起すれば、彼はあえてアロンの立場を選んだと云うことになる。彼は五木寛之のある随筆に言及しながらセイタカアワダチソウの物語について語った。――
 むかしむかしセイタカアワダチソウと云う外来種の雑草があって、日本の生態系を破壊する驚異として国策として駆除が遂行された。九州発のセイタカアワダチソウは逞しさを発揮して北へ北へと北上したが、それが北海道に至ったとき、まるで太平洋を半周するかのように、原産地のアラスカとカナダを目指しているのではないかという、壮大な循環論的な生物史的憶測を生んだのである。しかしある時期からセイタカの北進は止まり、旺盛な繁殖力もまた停滞した。つまり熊本弁で言えば「もう、よかばい」、この地を故郷として生きていくことを選んだと云うのである。姜尚中氏が自らに喩えて、これを「つらいはなし」として泣き笑いの表情で語ったのが印象的でした。

 生みの親と育ての親、これを彼流の美談として理解するのも良いだろう。しかし育ての親として語るには、日本と云う国はどこか配慮を欠いた愚かな親ではなかったろうか。どのような親であろうとも、親は親であると云うことであるならば、私たちはかれのこの結論を厳粛な気持ちで受け止めなければならないだろう。
 彼の立ち位置とは万事がこうしたもので、信念の人と云うよりはその時々で揺れ動いた。韓国人指紋捺印事件のとき、かれは心弱きひとペテロのようにカエサルの論理に従った。この日語られた感動的な逸話は彼の父親が死去した後、死後の墓碑銘を何とするかであった。つまり今まで通り「長野」とするか「姜」とするかの相談を母親から受けるのである。「長野で良いのではないか」と云うのが彼の決断であった。それは反面日本人として生きると云う彼の意思の表明であるとともに、家長として苦渋の生涯を生き抜き家族を過酷な戦後日本社会の中で育て上げ父親の同化的生き様への敬意であり哀悼の辞であったのではなかったか。それは姜尚中氏の優しさである。それなら公人として作家として「姜尚中」を名乗るとは、それは地霊として家霊としての民族や血と云ったもっと始原的なものを象徴する永遠なるものとしての母体、母親への愛惜なのである。
 日韓の物語は、同時に姜尚中氏の家族史の物語でもあった。父と母とはモーゼとアロンであり同時に同化と異化の象徴であった。かかる姜尚中流、在日の絶妙のバランスと緊張に終始生きることは誰しもがなしうる平坦路ではなかった。一見妥協に妥協を重ねているように見えながら丁度振り子運動のように、縮退現象のさ中において再度ぎりぎりの極限において反転する、強靭でしなやかな柔構造的な生き方は、姜尚中と云う一個の個性、一個の人格を造り上げた履歴は、異様な緊張を本人だけでなく周囲にも強いるものではなかったか。実は、この日は語られなかったけれども、最近報道されたご子息の自死、妻との隔離については、かかる民族の軋轢が生んだ悲劇の反映でなかったとは言えないだろう。育ての親はより妻と孫に対してより厳しく、違った次元での厳格さをみせがたのではなかっただろうか。

 これについては国際通の彼らしく、海外における日韓の青年たちの親密さについて語っているのが印象的だった。日本国内では日韓の青年たちはそれほど親密に交流しているとは思えない。とりわけ最近の東アジアの緊張の高まりとぎくしゃくした外交関係が成立してからは、そう感じる。しかしこの事情は海外では違った表情を見せているらしい。そう言えば長女がミラノに留学したときも最初に貰った写真が韓国人の留学生たちとの小旅行の記録であったことを思いだした。言語の壁と云うものは今でも短期の留学生の前には大きな障壁として立ちはだかっているのかもしれない。一年間の留学を終えて帰るまで親しい友人の一人はソウル大学からの留学生であった。帰国後も関係は維持されている。そんなあらぬことを考えながらこの点についてわたしは姜尚中氏が密かに後悔しているのではないかと思った。もし息子さんを海外に出してあげていれば異なった人生、違った人生の展開があり得たのではないのか、いまの彼はそんな禍根、痛恨の思いが、いま、あるのではないのか、わたしは彼の語りを聞きながらそう思った。そうならなかった双方の逡巡、言語化されなかった家族の迷路や心の闇をわたしは知らない。

 わたしがいま、烏滸がましくも彼に言えることは、この世をどう生きるかが全てではないと云うことである。洗礼を受けたことのある彼なら分かると思うが、この世と云う特殊なあり方は普遍的な生き方の全てを代表するものではない。むしろ美しいゆえに、魂が無垢であり過ぎるがゆえにこの世の世界の特殊な実存と両立しえないと云うこともあるのではないのか。自殺を禁止する、あるいはそれを神への重大な罪、許し難い挑戦と捉えるキリスト教団はこの点、真の宗教ではありえない。無垢な魂を救えなくて何が宗教であろうか、『カラマーゾフの兄弟』が描く通りである。

 姜尚中氏が語ったこの日の二番目の語りは、現代韓国人の精神的な構造と日本人との違いについてであった。彼によれば、韓国人はトルコ人に次いでストレスフルな民族である、そうである。簡単に言うと、これは現代の日本人も変わらないのだが、近代史のひずみが齎した民族的な傷痕、①民族併合下時代の日韓の関係、②冷戦時代の日韓の関係、③グローバル時代における日韓の関係、この三者が日本人にとっては時系列の遠近法的なヒエラルキーによって一応は秩序だてられているのに対して、韓国人ではそうではなく、同時並列的である、というのである。時に現代日本人にとって韓国人の行動が不可解に映じるのは、三つの民族感情があるときは、現在形として現象してしまうと云う民族感情の時間構造の重層交錯した関係についてである。日本人は、戦後、忘却の技術に卓越していた。卓越しすぎて巧みすぐるほどであった。小津の『東京物語』などが描く通りである。しかし韓国では歴史感情が時間の順序に従わず、圧倒的なグローバル環境下のなかに於いても、時として過去の傷痕が淘汰されぬまま亡霊のように甦ると云う事態があるのだろう。
 日韓関係は、こうした自他の精神構造の違いをも踏まえた対話を志向するならば、対話の実質そのものも違ったものになりえるのかもしれない。なぜなら世界観や自他の違いを言うことを言い立てることに能弁な両民族の特質も、海外と云うより広い視野に於いては、本当はお互いを最も親いものとして理解し了解しているものであるかもしれないからである、日韓の懸け橋に殉じようという彼はそういうのである。

 

玄関ホールの唯一のシンボル・木製螺旋階段

 

会場風景


 この日の講演会はこのほかにも、九州が東アジアに占める歴史的位置を踏まえての交流の玄関口であったことなど、文化財を踏まえた東アジア融和の拠点になるべき可能性についての討議もあった。
八年がかりでこの企画を実現された関係者の方々、ご苦労様でした。姜尚中氏の違った資質、異なった側面を引き出されたことはプロデュースする側のパーソナルがしからしめたものとして評価に値します。あらためて関係者の配慮とご苦労に感謝いたします。過去の自分自身の企画とおこがましくも引き比べて、雲泥の差があることを痛感した一日でした。