アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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高畑勲の『おもいでぽろぽろ』(1991年)アリアドネ・アーカイブスより

高畑勲の『おもいでぽろぽろ』(1991年)
2013-11-30 12:38:55
テーマ:映画と演劇




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・ 22年前に一度劇場で見て、今回見直した私の印象は随分と違ったものだった。
 物語を簡単に紹介しておくと、主人公はタエ子と云う27歳の独身女性で、経済的にも社会環境の上でも何不足なく育ったらしい、バブルの頃までの一億総中産階級時代の平凡な女性が、凡庸であるがゆえに現状に満足できずに、自分探しの旅に出る。その旅には記憶として小学校5年生当時の自分自身とその時代の思い出もまた同行していた、と云うわけである。

 22年後の私がこの映画を単なる児童映画として素朴には見れなかった理由の一つには、執拗な小学5年生当時の思い出と云う思い出の質と云うものの中年女性的な厚かましさの感じにある。過去が現在に影響を与えることがあるにしても、過去の現在に対する干渉の仕方は執拗である。いはば、完全には時間の濾紙によって浄化されない、生乾きの過去と、すべてがハッピーエンドに終わるかにみえる少女漫画の能天気さのアンビバレンスに尋常ならざるものを感じるからだ。

 いったい、自分探しの旅に出て山形近郊の農村で出会う紅花を摘む人々とは何だろうか。よそ利己心には無縁な善意この上ない人々であり、時に照れながら高潔な理想を語り何一つ欠点のないこの人たちは、まるで舞台の額縁の中に描かれた三文芝居の人たちであるかのようである。
 紋切型である、類型的であるというのではない。児童アニメの単純素朴な教訓物語として見るには高畑勲の映像作家としての技量が卓越しているがために、これを少アニメ風の「お話ですよ」と云うレベルで信じることが出来なくて、何か底知れない薄気味悪さ、得体のしれない反リアリスムの画像のようなものを視ている感じなのだ。はっきり言うと彼らは亡霊であり、これは死の国に旅した物語ではないのか。

 この山形の田舎生活が理想化されているだけでなく、タエ子の小学校の生活もまた、許せる範囲の小出しの独善性や小売りの利己主義や子供じみた過ちの数々を百貨店並みに散りばめることによって、ありえないような理想の域に達している。両親とお祖母さんと三人姉妹の末っ子と云う設定にしても、ありふれた平凡さを高畑が克明すぎるリアリズムによって典型的に描き出すがゆえに、丁度ダリの絵がリアリズムの世界に超現実的な非現実が侵犯するように、なにか当たり前すぎて気持ちの悪い現実性を与えてしまうのである。ちょうど造花がそうであるように、あるいはあまりに場の超自然性が卓越する葬儀場での限度を超えた献花のように、生と正反対のものに直面させる居心地の悪さなのである。

 物語のクライマックスは、農家の地霊的存在のようなお祖母さんの口から、嫁になってくれたらどんなにいいだろう、と独り言のように持ち掛けられるのである。これは小津の『麦秋』の名高いあの場面を踏襲しているであろうし、『東京物語』の東山千恵子演ずる母親が戦災未亡人の嫁に語るあの場面の30年後の戦後的反響の一つとも考えられる。しかし何かが違うのである。小津の紀子は、実際には現実には存在しない「銀幕のスター」のような描き方、しかも原節子である。女優原節子グレタ・ガルボのような殆ど生活感を感じさせない存在の卓越として映画的世界の内外を問わず偶像視され、理解されていたということは無視されて良いことではないだろう。しかし本アニメの主人公タエ子には卓越や超越は云うに及ばず個性や固有性の影すら見当たらないのである。
 アニメ作家・高畑勲の映像作家としての技量の高さは、子供向けのアニメでありながら27歳の、婚期を逸しつつある娘の精神的な老いの感覚ですら、アニメの画面に容赦なく映しだしてやまないのである。

 本アニメの主人公タエ子とはどの程度の人物だろうか。家庭では三人姉妹の末っ子であるがゆえに、欠点の多い普通の子として育てられたけれども、両親や祖母の愛を受けることにおいて、家庭内での固有さにおいて揺らぐきとはない。しかし学校や社会では反転して彼女は取り立てて特色のない地味な多数派の一人過ぎない。彼女が小社会や世間に向けた擬態とは、居心地の良すぎる家庭と無名性を強制して止まない外部世界との間に生ずる補償作用的リアクションに過ぎない。
 彼女は、山形でも束の間の山村留学なり農村体験を経験することで外目の素直さや従順さを、またもや嫌と云うほど無意識の内に演じており、その演技がうまく行き過ぎたために初めて自分の偽善態のあり方に気付く。例えば差別はいけないと云うかっての自分こそ同級生たちにの浅はかさに比べてすら偽善的であったと気づき初めて動揺するのである。周囲の雰囲気に流され、一度も自分の頭で考えたことのない人間が初めて内省と云う行為とはなんであるかを知る話なのであるが、この「内省」が長続きしない。

 タエ子は、せっかく自分で気付いた自己認識を長続きさせることが出来ない。過去の、些細な行動に託けて自分こそ偽善的だったと結論づける現在の心理的な経緯もまた、いい子であることが自己のアイデンティティであり一個の彼女流の存在証明だった彼女の過去のあり方の、リフレインであり単なるルーチン的繰り返しではなかったのか。なぜなら彼女を取り巻く過去も思い出も、現在進行中の山形での山村留学や農村体験もまた、劇場の書き割りか公衆浴場の富士山のように頼りない存在であるからである。

 このように考えると、劇中頻繁に引かれる現代ハンガリー民族音楽に重ねて描かれる墨絵のような伝統的な日本の村落風景から受ける違和の感じも、高畑の計算通りの結果だったか、と思わせる。つまり海外旅行のパッケージほどにも「隣の芝生」ほどにも現実性がないのである。ここには決して日本の現実を見まい、決して真の自己とは直面しまい、とする凡庸な時代の強固で強かな意志すら感じられる。

 最後の場面で、最寄りの田舎駅に見送りにきた山村留学の家族二三人と別れを惜しむ大事な場面で、突然大きなラジカセを持ったステテコ姿の奇態な御爺さんが割り込んでくる場面がある。タエ子は御爺さんを避けるようj隣の席で窓を開け、身を乗り出してこの大事な場面を逃しまいと、遠ざかっていく第二の故郷に向かって手を振る。哀惜と情緒がこの上もなく高まった思い出ポロポロのこの場面いおいても隣のボックス席からは御爺さんの巨大なラジカセから日本の伝統的な音楽である唸るような民謡が聞こえてきて興ざめ感を味わさせられてしまう。それで手を振って別れると云う名場面が終わると、タエ子は御爺さんの民謡が聞こえも見えもしないような遠くの席に移動してしまうのである。一体彼女は日本の農村に何を見たのか?

 かくかのように、この映画は、日本の現実を、ありのままの現実を決して見まいと云う意志によって貫かれた映画である。感傷的な素材を上手すぎる技量をもって高畑勲が超現実を描いたリアリティの転倒、と云う不測の出来栄えが、この映画をして何か得体のしれない後味を残すものにしているのである。

 アニメ作家としての高畑勲は、ときに盟友・宮崎駿を凌駕するリアリティの質を獲得することがある。それは素材の素朴さとプロフェッショナルとしての高畑の技量の卓越との間に生じるアンバランスである。名作『火垂るの墓』の後味の悪さは、単に少年少女の戦時中の可哀想なお話と云うだけではなく、同時に人間の根本的な冷酷さと云うものについて高畑が決して無関心ではいられなかった事情、個人的な履歴を垣間見せられたような気がする。『火垂るの墓』兄は本当に健気にも妹の面倒を見た利他主義と兄弟愛の権化なのか。根本は、彼の意固地さや詰まらない階級的な自負心がゆえに幼い妹の命を救えなかったのではなかったのか、この映画にはそうした反戦映画ンに固有の客観的な視点なり反省が抜けているのである。
 これも秀作と云って良い『平成ポンポコ狸』の結末が教える遣る瀬無さ、虚しさは尋常ではない。かりに高畑イズムと云うこのがあって、何かこの世に対する怨恨のようなものがあって、一種の黙示論的世界観、高畑の個人史の中に、この世を終わりにしたいという願望があるのではないのか、そんなあらぬ事を感じさせる。宮崎駿との間にあったと云われる過去の論争にしても、アニメの結末は明るくあるべきか否かという事だけではなく、根本には高畑の世界観に宮崎が馴染めないものを感じたのではなかろうか。単に結末が明るいか暗いかということならば、宮崎駿においても『風の谷のナウシカ』映画版と雑誌版(原典)とでは、全然別の結末を、つまり芸術かであると同時に世俗人宮崎駿は器用にも使い分けているのであるから。

 高畑勲は、巧みすぎるがゆえに本当の自身作というものを――自信作ではない――いまだに造りえていないのである。これだけの技量と才能を持っているのだから、今後の活躍に期待したい。