アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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パリと云う都市――サガンの『一年ののち』の祝祭性 アリアドネ・アーカイブスより

パリと云う都市――サガンの『一年ののち』の祝祭性
2013-12-14 11:30:50
テーマ:文学と思想





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・ 一読して感じるのはパリ人の人間模様であるよりは、彼らの悲哀と喜怒哀楽の感情こもごもを超えて浮かび上がる、パリと云う町への愛情である。自分たちが住んで生まれた町をこれほどの愛情をもって語りうる、と云う事について、わたしの驚きは大きい。パリとはいったいどのような町なのであろうか。
 ひとつには、戦間期を通じてパリには不自由な時代を経験した、と云う事もあるだろう。この小説の中でマリグラス夫妻というのが重要な役割を果たしていて、「戦争がはじまる1940年までの長い年月、お互いに深く愛し合っていた。ところが、四年間別れ別れに暮らした後、お互いにひどく変わり、五十代の老けをぐっと顔に刻み付けて再開した」とある。以降も小説には具体的な夫妻に関する説明がないので、戦争と云う事態が二人に与えたらしい影響の輪郭と云う以外は分からないのだが、マリグラスと云う名称は、なぜかわたしには、マルグリット・デュラスを語感的に思い出させる。デュラスもまたレジスタンス運動にかかわる過程で変化してしまった夫婦の苦悩について、『かくも長き不在』や『苦悩』などで語っている。当時、デュラス夫妻の事は、知ることが出来る立場の人には知ることが出来るかなり有名な出来事であったようで、サガンも彼らの噂の悲惨を聞き知っていたのではなかろうか。しかし、デュラスの絶望感はサガンには似合わない。年代も環境も異なるので当然のことだが、サガンが語るのは洗練された趣味をもつ中年夫婦の倦怠であり、夫のアランがまるで愛の空白時代を埋めようとするかのように、いまは若い美貌の俳優志望の女の子に年甲斐もなく熱中し、首ったけになり、アルコール中毒の中に自分を見失なっていく姿があり、同じく女優としての彼女の野心に翻弄される甥御のエドワールとの、まるで事故のようなアヴァンチュールを過ごした妻ファニーの一夜の思い出であり、その思い出は、夜が白む頃のベッドサイドに投げ出された幾つもの指輪を嵌めた歳よりくさい手のひらとして象徴されている。彼女は夢と現の間にあるとしか思えないような一夜の記憶のために甥が花束を送り届けてきたとき、なせか少し泣いてしまうのである。
 この夫妻が住んでいたのがトゥルノン街で、リュクサンブール公園から北にサン・ジェルマン大通りに突き当たるまでの間にあると云う。『一年ののち』の題名の由来は、彼らがここで一年に一度開くらしいホームパーティーの様なもの、その一年間と云う歳月が彼らの上にもたらした微かで留めようもないほどの曖昧な、パリジャンの云うアンニュイな感情を言う。

 ところで愛には原因があるけれども嫉妬には原因があるとは限らない。三文作家のベルナールは資産家の娘ジョゼに対して仄かな慕情を持っているがそれを嫉妬と勘違いしている。彼はプルーストを読んで自分とジョゼの関係を『スワンの恋』になぞらえたいのだが、ジョセは作者フランソワーズ・サガンを思わせるほど知的で明晰な女性であり、オデットとは似ても似つかない。つまりお互いに敬愛しすぎているがゆえに、世俗の恋愛と云う形式で汚したくないのである。愛とは、好いたとか惚れたとか押し倒したとかの格闘技もどきのものであってはならないのである。二人の愛をめぐる逡巡はまるで19世紀の偉大なる恋愛小説についての観念であるかのように、決して世俗の手垢がつけられてはならないものなのであり、それでジョゼは自分とは類似なところのまるでない年下の医学生とのアヴァンチュールを本物の愛だと思いこもうとしているのである。
 二人をとらえて離さない観念は、もはや偉大なる文学の時代は終わった、と云う感慨であるだろう。先に紹介したマリグラス夫妻にとっても過去が大きな傷痕か空白として残されていると云う相似た心理的構図と響きあうものがある。愛の殉教者と見まごうばかりに愛の賛美者でありながら、ストイックでありうること、それがパリジャンの資格とでもいえそうな主張がここにはある。なぜなら愛の中に孤独を発見することにおいて、一人であること、孤独の有限性はあらゆるこの世の約束事を超えることが出来るからである。

 彼らと対照的な生き方をするのが野心家のベアトリスである。彼女は物語の最後では念願の主役を射止めることになる。また、パリでは主役であり続けるためにはスキャンダルが必要だと云うう理解も手に入れる。女優になるとは、有名になるとは、彼女の場合田舎出の純朴な青年エドワールを捨てることであり青春との決別を意味する。つまり舞台と云うこの世を超えた仮構の世界に生きるとは人間として生きることの断念と云う意味が含まれているのである。それゆえ初舞台が成功に終わった晩、彼女は一人化粧台の鏡の前で理由のない涙をさめざめと流すのである。
 彼女を成功へと導いたジョリェと云う演出家の人間像も心憎い。彼はベアトリスが初舞台を難なくこなして船出を見定めた時、遠からず自分と彼女との関係も終わりに近づくだろうと思う。初舞台で始めて観客席の方を振り向いたベアトリス、――歌舞伎の見えのように観客の視線を集め、かつ新進女優が認知を受ける大事な通過儀礼であるのだが、いまや彼女の前にまるでクラスの異なった俳優が立っている、今後より一層重要になるであろう未来の相手方が、――今はまだ未知の主役の俳優が立っていたのであるから。そうした、利害関係と云ってしまっては身も蓋もないアートの世界に生きるものの不文律、あえて拡大していうならばパリジャンと云う都会に住む人間の感性を、ジョリエは何よりも愛していたのだから。
 パリが祝祭都市として演劇性を持つと云う意味は、演劇と云う絵空事の世界に殉じても悔いはないと云うパリ人の心意気を感じる。絵空事のほかに真実があるわけではなく、仮初の中に生きると云う覚悟と覚醒の中に、理知がv知性が、明晰であると云う事が、そしてエレガンスであると云う事が、フランス風もののあわれがあるのだと思う。

 もの憂さと甘さと悲しみのサガネスクの世界の中にあって、ジャコバンの如き最左翼はエドワールであろう。彼はまるで物語の世界の中の主人公のように生きる。彼の生き方は、世俗的世界が定期的にあるいは間歇的に殉教者を必要とするように、今後もサガンの主要な登場人物となるだろう。次作『ブラームスはお好き』のシモンはエドワールのより純粋化された姿である。
 エドワールが住んでいたのはオスマン街とトロンシェ街の交差するあたりと云う設定になっている。ジョリェが酔い潰れ酔い崩れたアラン・マリグラスの落魄を見かけたのはそのトロンシェ街を南にコンコルドの方に下った中ほどにあるマドレーヌ界隈だとされている。