アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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オペレッタ 『こうもり』 アリアドネ・アーカイブスより

オペレッタ 『こうもり』
2013-12-24 00:18:27
テーマ:音楽と歌劇




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・ わたしは歳の瀬の賑わいが好きだ。全部と云うわけではないが、クリスマスと新年に向けられた雑踏の表情は輝いている。一つには年末年始に向けて普段買えなかったものを購入すると云うので浮き立っているのかもしれないし、この年末の三十一日に向けられた街の喧騒が一転して厳かな静寂の朝を迎える正月への時間の落差も好きだ。
 今年は珍しく年末年始を留守にすることにしているので歳の瀬を味あおうと『こうもり』の映像を、近くの図書館の映写室でみた。毎年この時期にみているものであるから、演奏も歌い手も舞台装置もすべて同じである。ただ見る年によってこちらの受け取り方が違うのが、異なったところに感心する。

 『こうもり』は三幕のオペレッタである。オペラとオペレッタがどう違うのかは前者がバレーや踊りの様な歌劇的な要素を含まないことと、後者が歌や踊りのほかに通常の舞台劇の様な会話が交わされるのに対して、前者では厳密に日常的な会話を排除し、レスタティーヴォと云う歌語りの形式で歌と場面と場面を繋いでいるというようなことだろうか。
 それでも、『こうもり』には第二幕に、偽装伯爵夫人のチャールズダッシュの踊りがあるし、ポルカの踊りもある。また第三幕は、歌の要素よりも拘置所の愉快な看視人の滑稽な動作の連続で、演劇的要素の独壇場と化した感じすらある。

 それで話の筋なのだが、『こうもり』と云う題名の由来が自明であるようでいて解りにくい。何故かと云うと、主人公の裕福な銀行家のアイゼンシュタインは酒癖の悪るさが災いしたか官吏を殴ってしまい、加えて弁護士の不手際もあって、年末年始の八日間を拘置所で過ごさなければならなくなる。それを聞いた親友のファルケ博士は数年前の仮装舞踏会折に、自分は蝙蝠に仮想したままただ一人、アイゼンシュタインに森の中に置き去りにされ、夜が明けると日中ウィーンの街を衆目を浴びて蝙蝠姿の姿で晒しものにあったことを密かに根に持っていて、その”意趣晴らし”のために、この夜(31日の夜)拘置所に出頭しなければならない友人をオルロフスキー公爵の夜会に誘い出し、一幕の劇中劇を仕組んで、さんざん笑いものにしようと目論んでいる。それでファルケ博士は、0時までには出頭しなければならないアイゼンシュタインを、舞踏会の楽しさ、そこに居合わせる美女の数々などの空想を吹き込みながら、夜会服に着かえた彼を早々に連れ出してしまう。
 さて、その”意趣晴らし”とは、夫が色好みであることを知っているアイゼンシュタインの妻が仮面をつけてハンガリーの伯爵夫人と云う名乗りで、アイゼンシュタインに彼女を誘惑させあとで鼻をあかせる、と云うものである。一方、この筋書きには行き違いがあって、夫のいない間にオペラ歌手との逢瀬を楽しもうとしていたアイゼンシュタインの妻が、たまたま家に居合わせていけ図々しくも夫の室内着を勝手に着用し、主人然として我が物顔にアイゼンシュタインが料理屋から取り寄せて手をつける暇がなかった料理を食していたオペラ歌手を、行きがかり上、仕方なく夫の代わりとして刑務所の所長に引き渡してしまう、と云うファルケ博士の筋書きにないことも起きてしまう。
 ファルケ博士の筋書きは、夜会で、これもまたファルケ博士の依頼を受けたフランス人の外交官に扮した刑務所所長が、これもルナール侯爵と身分を偽ったアイゼンシュタインと一期の親交を結び、一夜明けると二人が刑務所内で”意外な再会”を果たす、と云う仕組みなのであるが、それに意外な妻の浮気と云う要素も絡んでくるわけである。
 第三幕は、ファルケ博士の「こうもりの意趣晴らし」と云う要素と、妻とオペラ歌手の浮気と云う想定外の要素が絡んだドタバタが刑務所所長室を舞台に展開し、一方、アイゼンシュタインの代理として入ってしまっているオペラ歌手を何とかしなければならないと刑務所を訪れた妻と夫がまたもや”意外な”鉢合せをし、事態の真相に気づき始めて弁護人に変装した夫が全てを妻とオペラ歌手から問い糺し、真相を根拠づけてあわやと思わせるのだが、進退窮した妻は最後の切り札とばかり、昨夜のハンガリーの伯爵夫人は自分であったことを明らかにし、夫の好色さを逆襲してみせる。夫がたじたじとなったところにファルケ博士が登場し”一切の”種明かしをする。それを聞いてアイゼンシュタインは全てがファルケの仕組んだ趣向であったかと勘違いして、目出度しめでたしで幕となる。
 この話の教訓は、真相は少し違うけれども、ほどほどの仕上がりで、それで万事が上手くいくのならそれもよい、と云うものである。

 ところで、このオペレッタの”意趣晴らし”、についてであるが、つまらぬ官吏との諍いで刑務所行きとなったアイゼンシュタインの不運を気の毒に思ったファルケ博士の、一夜を慰めるための粋な趣向、と考えた方がいいだろう。とりわけそれを強く感じたのは、第二幕の終わり近くにある、「ともに歌おう」のアンサンブルの美しさである。第二幕の華やかな舞台の豪華さと喧騒が一転して音楽の諧調は、神にも通じるような厳かさ、モーツァルトのオペラに見るような神韻縹渺とした厳粛さに転じて、主要登場人物の夫々が夫々の思いと感慨を籠めて人生の調和を寿ぐのである。『こうもり』の本当のクライマックスはこのピアニシモにあるのではないのか。その精神は、パフォーマンスとしては逆なのだが、歳の瀬に、一同、声を合わせ心を併せて歌う『歓喜の唱』の荘厳さを思わせるものがある。その調和と幻想の美を司る司祭が、つまりはオズロフスキー公爵、現代のデウス・エクス・マキナなのである。
 このオペラは、人の世を寿ぎ慈しむと云う精神において、めぐり来る輪廻のように、めぐり来る時間を、相応しい人生の時間の質を、経めぐりく四季の車輪の、起節を飾るに相応しい行事と、春を待つウィーン市民にとって、信じられ伝えられてきたのである。



 みなさま、よいお年を!