アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『東大紛争45年目の真実――教授たちの告白録』クローズアップ現代・をみて感じる アリアドネ・アーカイブスより

『東大紛争45年目の真実――教授たちの告白録』クローズアップ現代・をみて感じる
2014-01-30 20:56:32
テーマ:政治と経済






東大紛争?

 

 

・ 東大闘争の最終局面を握る、加藤総長代行以下のブレーンの内部記録が、ある物故した元物理学教授の書庫の中に保管されていた、自らの非力を認め、歴史の検証に耐えたい、かかる人智を超えた責務のようなもの、霊感のようなものが理系研究者によってなされたと云う偶然を前にして、何か神妙な気持ちになった。なぜ、法学や経済学等の、人文科学や文学の研究者ではなかったのか。

 加藤一郎総長代行については、こましゃくれた小官僚兼アカデミシャンと云う以外の印象を忘れたことはない。当然、この番組でも、歴史に淘汰された段階で、政治史や世相史と云う外面に現れた限りでの貢献、と云う役割以外には誰も彼の役割に期待しない。
 この番組で焦点を当てられた人物は、加藤率いるブレーンの一人であった坂本義和元東大教授と、当時若手の院生だったと想像される松本健一の両氏である。
 坂本は、老境の今を迎えても釈然とせず、慙愧の想いに絶えない口調で、大学の自治を保守出来なかった責任について語る。それを問い糺した加藤とのやり取りも残されていて、加藤の返事は、そう言うなら、君たちは本気で自分たちの方針を支持したか、と云うものであった。加藤の念頭にあったのは、まず何よりも、勝ち目がない、と云う損得の感情だけだった。一切に、あの騒乱の客観面についてだけ云うならば、その通りだっただろう。加藤に、そしてあの日以来の日本人に欠けていくのは、必敗の遺志と云うべきものだっただろう。ここから、三島事件の間接的な遠因を帰結することも出来るであろう。

 もう一人の、個性的にして卓越した反アカデミズムの研究家・松本健一をゲストに迎えたことの失敗は、この学者が、NHKなどが想像するような「大学の自治」であるとか「学問の自立」などと云ううたい文句を、まるで信用しないところから出発した知識人のひとりであった点である。それで国谷のインタヴューとまるで噛み合わなかったのは残念である。彼が、この記録文書の発掘について唯一評価したのは、通常、日本の政治権力の歴史においては、権力者側の記録、とりわけそれがある種の「失敗」の歴史的経緯を含む場合は、記録に残さない、と云うのが不文律であったにも関わらず、今回の出来事がささやかな例外となりえた、と云う点だけである。
 この学者は、「学問の自立」や「大学の自治」などは、屁とも思っていないのである。守るべきも聖域など、考えようによっては特権ないし既得権益の別称にほかなるまい。かかる松本の対極に入るのが、もう一人取材に応じた元東大助手共闘の最首悟であろう。昨今、3・11で万年助手と云う言葉に久しぶりにお目にかかったが、奇特な人はやはりいるものである。継続は意志であり力であり最高意思である。最首と松本を対峙させてみたら、また違った味わいの番組になったとは思うのだが。最後のリベラルとポストモダン期の土着型の意識人との対話になった、とは思うのだが。

 とはいえ、人智を尽くし、人智を超える判断を他者にゆだねると云う元物理学教授の姿勢は、尊いのだと思う。
 なぜなら、わたしたち人間は限界をもった存在であり、万能ではないからである。科学は、既知と可知の領域の違いを知っており、知の特権性に頼らず、後世の検証に委ねるというのも科学者としての矜持なのである。

 さて、大学の自治を云うのは良い。しかしヨーロッパのように何百年にもわたる伝統を踏まえていないところで、それに値する経験を踏まえない風土でそれを主張したところで、松本らが言外に意思表示しているように、流行に被れた文化人の過去のノスタルジアを一歩でも抜け出ている、とは云いかねるだろう。もし、本当に大学の自治が命を賭けてでも死守する理念であったとするならば、その後に迎えた空前の、一億総中流意識と物流の時代の国民的満足度と、どのように思想は均衡した、と云うのだろうか。思想とは観念ではない。概念とは単なる思惟的構築物ではない。大衆の支持を失なったとき、「大学の自治」も破れたのである。加藤が文部官僚に膝を屈したとき68年の思想も敗れたのである、白土の『忍者武芸帳影丸伝』の一本しめじにょうに。大学の自治が破れたのは大衆が無知であったからではなく、必要でない、と判断されたからにほかならない、吉本ならそう云っただろう。

 むしろ、東大闘争は、そのようにみるのではなく、戦後二十五年の時を隔てた、戦争責任論の、完遂されることなく曖昧化された、日本人の無意識と集合的意識が生んだ、もう一つの裏側に隠された戦争責任論の、継承された姿、ひとつの鉱脈の、ひときわ激しく煌めいた、顕現のあり方の一つであったのではなかろうか。わたしはそこに、死者たちの、戦没者たちの怨念すら感じる。死者たちとは、何も戦没者のみを意味しない。
 周知のように、60年安保闘争が、インターナショナリズムとともに、一見相反するような「反米・愛国」の色彩が濃い性格を持っていたのは、果たされなかった日本政治史の中枢部への、逃げのびた統治機構の暗部への、国民の無意識のアレルギーであった、とは一部に指摘されている通りである、と思う。当時の総理大臣岸信介個人への国民的憎悪は政治的主張と云うよりも、再現された、忘却の彼方に沈んだA級戦犯者の幻想が可視化された映像であった、ようににも思う。岸信介こそは、国民の自己嫌悪が具現化され可視化され形態だった、と云えば物議をかもすだろうか。
 同様に、68年問題も、世界同時多発的発生したスチューデントパワーの枠組み的な理解だけでは不十分で、ましてや、大学の自治とか学問の自立性だけでは説得力を欠くだろう、そう云う面があったことは否定できないにしても。
 68年問題とは、戦争責任論、より厳密に言えば、戦争責任論を不徹底に済ませた「戦争責任論の戦後的責任」を問うべく形成された言説、と云うべきものではなかったのではなかろうか。68年の闘争が、ベトナム等の反戦運動と結びつく本質的な理由もここのあると云えるだろう。政治運動と平和運動の結びつきがここではより本質的だったのである。私たち国民は、国民運動のレベルとしては、その二つを有効に結びつけることが出来なかったのである。

それにしても何故、東大闘争だったのだろうか。戦後日本は米国主導による極東の政治的・文化的な枠組みの中で、軍部や統治機構は云うに及ばず、財閥解体や農地改革等、様々な領域で変革がなされた。その中で、教育界のみが、聖域として、真の自己反省を経由することなく臆面もなく戦後の世相に滑り出た、ということはあっただろう。国民の無意識化された幻想的言語の領域では、そして死者たちのもの言わぬ言語の領域では、自己反省を欠いた教育界の頂点にある東京大学が、自己否定と云う名の自己批判の名辞を選択することにはある種の必然性があったのであろう。安田講堂と云う構造物は、大多数の平均的日本人よりは素直だったのである。

 言葉は生ものであり生きたものであり得る、言葉がないがしろにされたとき、言葉は幻想の領域に表現を求める。東大解体も自己否定もそうした言葉のひとつであった。言葉は、歴史の脈絡の中で自らが貫かれてあるそのあり方の中で、そうした言語をめぐる稀有の経験を受け入れた時代がかってあり、そしてそのような言葉の記憶ために、その周辺部にあり、たとえそれに棹さすものの立場にあったものであったにしても、歴史的批判と云う、他者の評価に後世をゆだねる、そうした感慨を体制側にある科学者にすら与えた。昨今、アベノミクスの治世下、何故日本だけが、という論議の勢いが止まらないようだが、およそ言語に対する感性を欠いたものたちの言い分のように思われる。今回の、東大闘争と云う未曾有の経験に直面した、物故したあるひとりの物理学を教えた教授、そして、かってあくまで物理学の言語で語ろうとした稀有の者たちの群像、如何なる場合も、人文系の学者や文学者ではなかったのである。