アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジャン・ルノワール『黄金の馬車』アリアドネ・アーカイブスより

ジャン・ルノワール『黄金の馬車』
2014-02-02 22:23:53
テーマ:映画と演劇




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・ 1952年制作のジャン・ルノワール監督の『黄金の馬車』は、何かオペラを観たような感じがする。つまり、ありそうもないコメディと云うかドタバタ劇が、予想がつかずに幾度か懐疑的になり、終わってみれば豊かさとほろ苦さに包まれる、流石、ヨーロッパのドラマツルギーの正道を踏む、と云った豪華な趣なのである。
 前日、出張の疲れもあり、午前中をのろのろと過ごして、気が付けば余り映画を観たいと云う心理的余裕もなくて、それに題名はいただけないし、18世紀のスペイン占領下のペルーの現地宮廷と云うのも気に入らないし、ジャン・ルノワールと云う名前だけをひたすら信じて出かけたのであった。

 物語と云うのは、スペイン侵略化のペルー植民地宮廷を舞台としている。インカのクスコをめぐる熾烈な攻防戦が背後で語られるので、インカ帝国の終末期なのであろう。現地のスペイン植民地政府を牛耳る総督は、祖国を遠く離れて本国以上の王朝風の倦怠と頽廃に埋もれかかっている。独身で、現地有力の貴族の娘を愛人に持ち、彼に関心はどこか自分の身体的な細部に不具合を見出すだけである。足がむくんだと云っては王座の前に盥を据えさせ、足を付けたまま家臣に面会する。目にゴミが入ったと云ってはお気に入りの愛人に面を差し出しては瞳を拭ってもらう、万事がだらしないと云うか、それよりも映画を見ていくと解るのだが、こうした擬態は彼の権力の孤独な構造、過剰な権力の故事であることが分かる。

 物語が進展を見せるのは、総督が統治する町にイタリア人の旅一座が到着するところから始まる。船には旅一座のほかに、これもまた総督の威光を現すための象徴としてイタリアで造らさせた黄金の馬車があった。町の話題は成行き黄金の馬車に集中し、その報を聞いてざわめきが波紋のように広がり貴族もその婦人たちもそれを見ようと窓辺に群がるところから始まる。家令は提督に問う、公費で対応すべきか私費で処理すべきか、と。むろん、公費であると提督は答える。

 イタリアの旅芸人御一座は、自分たちの興行がさほど重きを置かれていない現状を見て後悔し始めるものもいる。一座の看板女優カミーラも例外ではない。案内された舞台小屋と称するものを視て一同が漏らす感想は、まるで豚小屋だ!というものであった。宿泊費の方も法外のものがあった。座長のドン・アントニオの指揮下、何とか気を取り直して、住み着いたラバの類いを外にだし、部屋を片付け、傷んだ部材を補修し、緞帳やカーテンを張り巡らして、何とかそれらしくして初日を迎える。宿泊費の方も、カミーラに同行し崇拝する騎士フェリペの胆力が宿の亭主の側から譲歩を引き出すことが出来る。
 こうして旅芸人御一座は何とか初日を迎える。ところが舞台が始まっても場内の喧騒は静まらず観客は芝居と云うものに対する敬意と云うものを知らないかのごとくである。加えて、観客の一人として来った町の人気の闘牛士ラモンが、舞台そのものから観衆の注目を奪ってしまい、彼の威光と賛辞の前に劇の進行は中断されてしまう。それでも個人的にカミーラに興味をひかれたラモンがカミーラに向かって拍手をして見せたので観衆もそれに倣い、何とか面目を施すことができた。興行的にはどうかと云えば、ここでは貴人から入場料を請求することは失礼に該当し、庶民はお金を払って観る習慣がないと云うわけで、実質的にお金を払ってみるのは貴族と庶民の間に僅かばかり存在する中流の人々のみというわけで、収支決算は散々である。
 ところがここに意外なことが起きて、宮廷で程遠からぬ村芝居の喧騒やどよめきを伝え聞いた総督がにわかに関心を示して、わざわざ前渡金と家令を派遣して、宮廷での次回の上演を依頼して来るのである。渡りに船とばかり座長アントニオが乗り気になるのも無理はない。

単純ドタバタ劇と思われた『黄金の馬車』も、 ここからがドラマの展開が分からなくなる。と云うのも、旅芸人一座の看板女優とはいっても、育ち品性は隠しようがない、その彼女を、総督はまるで貴婦人のように応対する。曰く、――ここ数年来、自分は初めて心から笑うことが出来た。つまり総督は宮廷風の儀礼や頽廃の底に人間性を秘めていたと云うわけである。そして総督はカミーラに法外な首飾りをプレゼントする。首飾りの豪華さは総督の王朝風恋愛儀式の法外さに比例しているのである。ここではカミーラの下層階級出身の素朴さと、大げさな総督の儀礼の対比が実に面白い。総督には、王朝風文化を生きる彼なりの矜持があって、女性とは、生まれや育ちの如何にかかわらず、如何様にも高貴に生きることが出来る存在である、と云う。男は、高貴さを、観念として思惟し理解することはできるけれども、高貴さをそのものとして生きることはできないのである、と。総督の世離れした言説をぽかんとして聴くカミーラとの対比も面白い。

このあと、物語りの方は「黄金の馬車」と「カミーラ」をめぐる争奪戦と云うか権力闘争の様相を帯びるようになる。前者の方から云うと、「黄金の馬車」を総督がカミーラにプレゼントしたことから宮廷で追及を受け罷免の一歩前まで行くことになる。他方、カミーラの争奪戦においては、カミーラと総督の関係を知った騎士フェリペは、現地人の抵抗運動に加担すると称して一座を去っていく。町の人気闘牛士ラモンは、これから述べる総督を見舞う事になる政変劇の間隙をぬって勝機が出てきたとばかりカミーラに強引に言い寄る。そこで現地独立運動の合間を縫って帰って来たフェリペと鉢合わせし、派手な剣劇試合の立ち回りを展開する。その修羅場に急遽訪ねてきた総督をも交えた三つ巴のドタバタ騒ぎの後に、うんざりしたカミーラの「みんな、出て行って!」の、号令一下、すべてのドラマがご破算となる。
 カミーラの三人の男たちに対する評価は次のようである。男らしく勇気もある闘牛士ラモン――男は目先の事を考えずに猪突猛進、かくあらねばならない。しかし今や聖なるものに目覚めつつあるカミーラが愛を語る相手としては男らしいと云う事だけで十分だろうか。
 二番目の、利害を捨てて愛をささげる騎士フェリペ、いまや彼は現地の抵抗運動に加担する過程でスペインの占領地政策の矛盾を理解し、滅ぼされる運命にある現地人の方に真の人間としての美徳や人間性を感じると云う。しかし、この誠実極まりない好男子の求婚に対して、男と云うものはそうでなければならない、しかし彼の優柔不断さは決断としては遅すぎると突き放す。
 三番目の総督の王朝風の愛、ピグマリオン風の慈愛もまた、総督と云う高貴な身分ゆえに価値あるものと映じたのだが、ただの男となってしまったのでは魅力もうせる。それで三人が三人とも、愛人としては失格!ということになったらしい。

 さて、物語りの結末は以下の如くである。
 総督の罷免の条件としては宮廷の決議と本国の承認の他に、現地のカソリック大司教の了承が必要となる。その大司教が今や宮廷に、なんと、あのカミーラを従えて静々と宮廷の広間に乗り込んでくる。そして一同を見回して曰く、――いとも目出度き類例のないカミーラのカソリック普遍教会に対するプレゼントを祝福する、と。今後はこの黄金の馬車は、病みつかれたものを天国に送り届ける、またとない恩寵の「黄金の馬車」になるであろう、と。

 結局、青天の霹靂の如く最後に教訓を垂れ、あらゆる人間の野望や営為を御破算のものとするカソリックとは何であろうか?カミーラは三人の愛人たちとも別れ、旅芸人の一座とも別れて修道生活に入るのだと云う。そこにしか生きる道はないのだと云う。思考の理を理解したものはこの世に生きることを断念せざるを得ない、この世は所詮、不完全であるがゆえに。

 カソリック舞台芸術と読み替えてもよい。所詮、舞台はしがない絵空事に過ぎないが、この世を超えて、演劇的世界のみが実現できる固有な世界と云うものがある。それを知ったものは、演劇と云う世界に生き死にしても悔いはない、と思えるほどのものであるのだ、と。カソリックの万能性とは芸術の自在さと云う事の譬えでもあったのである。

 舞台芸術、万歳!