アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ミシェル・マンソー『友人 デュラス』 アリアドネ・アーカイブスより

ミシェル・マンソー『友人 デュラス』
2014-02-08 14:00:09
テーマ:文学と思想






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 「愛人 ラマン」(原題 L'Amant)、と「友人デュラス」(原題 L'Amie)、♬「ラマン」と♬「ラミイ」、邦題では分かりにくくなっているけれども、韻を踏むような両者の言葉の響きは、意図的に共通化された、ある記憶について言外に語る。

 マルグリット・デュラスが晩年に近づくにつれて「ラマン愛人」と云う言葉にどのような意味を込めたかは言語的理解を超えたところがある。晦渋で言語の韜晦の壁を張り巡らした彼女のというか、「女王」の聖域に近づこうとすれば、例えばヤン・アンドレアが試みたような、自らが四十年の年齢差を超えて「愛人」となる捨て身の覚悟が必要なのだろうか、いずれにしてもヤンは普通の人間としての姿でロッシュ・ノワールの岸辺からこの世に帰還することはなかったし、それ以外の主要登場人物にしてもデュラス文学の精華アンヌ・マリ・ストレッテルの薄明の幽玄に消えていく入水に象徴されるように、デュラスが長命であったこともありその多くがこの世に痕跡をとどめていない。何れにしても異端の古代の巫女めいたデュラスには不可解でよくわからないところがある。
 この書を読んで感じることの第一は、デュラスの友人であることの意味であり、女王の友人であることの難しさ、である。

 この書の特徴は「愛人」であることの「手前」で、人間としてのマルグリット・デュラスの「友人」であることの意味について考えさせる不思議で懐かしい書である。著者は1950年代の半ばから三十年の長きにわたって親交を結び、ある日突然、著者が書いた新著をめぐるデュラスの「女王」めいた威厳の厳しさと酷薄さの中に、死に至るまでの「失籠」――マルソーの固有の表現を借りれば――「12年間の失籠」を経験するのだが、二人は再び顔を見合わせることもなく、あのサン・ジェルマン・デ・プレ教会での告別の席で、人影に隠れて、人陰にか、か紛れて見送りに行った彼女が見出したのは、意外にも、最前列に用意された「家族席」なのであった。ユダヤ人として、若くして悲しみに抗いながら生きることを学んだある孤独で知的な女性が初めて経験する、無防備で構えない帰属の涙を流すところで、この回想の書は余韻嫋嫋と終わっている。 

 ミシェル・マルソーの「失籠」の原因は様々に想像され得る。老いたデュラスは電話機の向こうから、一言、(あなたの本は)「デリカシーに欠けたわね」と云うものだが、実際のデュラスの年齢をばらしたことだと当初は理解される。しかしデュラスほどのものとなれば、生年月日などは周知のことではないのか。そこで著者はこのように考え直す。彼女の年齢ではなく、ヤンとの年齢差を書いたことが激怒を呼び込んだのではなかったか、と。しかしヤンとの年齢差にしても公然の秘密の類いのものではなかったのか。しかし公然の事実と、それを明示的に第三者が文章で語ると云うのとは違うのである。

 しかし、わたしは著者のマンソーとも違ってこのように想像してみる。
 マルグリット・デュラスと云う作家はある段階から「伝説」となっていく、と。「伝説」の場所は固有の三つの場所があって、一つは有名なサン・ブノワ街五番地、二つ目はトゥルーヴィルのロッシュ・ノワールのホテル、三つめはノーフル・ル・シャトーの田舎風の隠者めいた館である。これはぞれぞれに有名なのであるが、サン・ブノワ街が長きにわたって作家としてのデュラスの記憶に結びついた生産と再生産の苛烈な現場であり、二番目のロッシュ・ノワールがヤン・アンドレアとのスキャンダルめいた、突出した秘密の愛の記憶の場所であるのに比べると、デュラスがフランス農民の末裔としての民族としての帰属を確認した場所は、なぜかデュラス文学の中では両者の間で控えめで黙だしがちである。しかしその場所でこそ、質素な材料で料理に腕を振るうデュラスの姿があり、ミシンで縫い目を追う文豪の姿が見られたはずなのだが、そこにこそデュラスと云うある特異な人物と人格の中で、極めて距離の取りにくさからくる「友人」、と云う概念が成立する稀有の奇跡のような三十年間があった、と考えるべきである。

 ことは『愛人ラマン』の成立の事情に関することがあるのであろう。わたしはどうして特異なエクリチュールを駆使して冷徹な非現実を描いたデュラスの文学が、突如として感傷的な『ラマン』のような方向の書物を書いたかを疑問に感じていたのだが、つまりは万人向きの『ラマン』が国民文学化される過程で、デュラスの文学が「伝説」となる過程で、ノーフル・ル・シャトーのの「日常」はそぐわないものになっていったのではないか、と考えている。「伝説」の世界では「友人」のいる場所も現実には必要とはされなかったのである。

 それにしても三十年にも及ぶ日常がある日を境に消えてしまうと云う事がわたしに途方もないほどの感慨を催される。こうしたデュラスの「過激」さは彼女が共産党を除名処分を受けた時の経験が影響しているのだろう、と云う推測をマンソーは試みている。むしろある日を境に日常が切断されると云う経験は、デュラスの生涯の中で大なり小なり普遍的にありえたことではないのか。そしてより肥大化された極限値としての、民族経験としては、アウシュヴィッツの経験があった、と云う事なのだろう。穿ったみかたをすれば著者がユダヤ人でなければかくも速やかにことは履行されただろうか。歴史的経験がミニマムとして消え入るように反響している。わたしがマルグリット・デュラスの文学をアウシュヴィッツ経験以降の文学であると規定する所以である。