アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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歌舞伎の古層、寿ぎの演劇! アリアドネ・アーカイブスより

映画『ローザ・ルクセンブルク
2014-02-14 15:50:45
テーマ:映画と演劇

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ローザ・ルクセンブルク
平和と革命のために生きた思想家ローザ・ルクセンブルク。彼女の人間性と波乱に富んだ生涯を描く感動作!

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その美しさと清らかさ、勇気と聡明さにおいて傑出した女性、ローザ・ルクセンブルク。彼女は19世紀末から第一次世界大戦の時代に、人間解放と平和主義を目指して闘った。その情熱的で波乱に満ちた生涯を、魅力的な人間像に重きを置いて描いた感動作。

※1/11(土)~17(金)の一週間限定上映
●ジャンル:人間ドラマ
●上映時間:122分
●公開年月日:2014年1月11日(土)

監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ

上映映画館

※上映スケジュールは各映画館ホームページなどでご確認ください。
KBCシネマ1・2
TEL:092-751-4268
住所:福岡市中央区那の津1丁目3-21
劇場公式HP:http://www.h6.dion.ne.jp/~kbccine/


・ かねがね感心するのは福岡のような地方都市で、客席50席にも満たないような映写室を二つ持った映画館が、ある民間の放送局の支援の基にかなり長い間存続していることである。
 入場券を買いに場内に入ると、映画に関する新聞記事などのコピーが掲示されていて、少し岩波ホール風?の雰囲気である。最近の映画館のホールが客だまりとなっているのは珍しいことだ。ここは岩波のような権威主義的な感じがなくて好ましい雰囲気である。ホールの別の壁には昨年東京で見た映画『ハンナ・アーレント』のポスターが貼ってあって、来週以降の上演予定は未定、とある。客筋の動静を見ながら考えて行こうと云うのであろう。あるいは、公演に一定の成果があったからマルガレーテ・フォン・トロッタ監督の80年代における旧作を再演すると云う事なのだろう。場内を見回すと若い一人客の女性の姿もちらほら,と。ふと、一人一人の気持ちを、若い人の気持ちを聴いてみたい感じにおそわれた。(映画『ハンナ・アーレント』は今月の21日の金曜日まで、一か月を超える地方都市には珍しいロングランとなった模様である。)

 ローザ・ルクセンブルク、伝説のローザと云うべきか。ほとんど人となりを知らないのでポーランドの生まれであると云う事も初めて知った。ポーランド人である彼女がなにゆえドイツ共産党の創立に命を懸けたのかも、実は近世近代におけるヨーロッパにおけるユダヤ人性、と云う事で得心がいった。ヨーロッパのユダヤ人とは複数の国にまたがる親戚のようなネットワークを持っており、幾分欧州の王室に似ている。国民国家の市民である前にヨーロッパ市民なのである。だから祖国ポーランドのためにもドイツのためにも命がけで生きることが出来たのである。

 そうした欧州ユダヤ人――わたくし流に言えば「普遍ユダヤ人」の没落が始まるのはヨーロッパにおける国民国家の成立と軌を一にしていた、と思う。具体的にはパリコミューンの挫折後に顕著になる、ある種の民族主義的な傾向ゆえにであったのではないかと思う。
 この映画でも、最終的にローザを敗北に突き落とすのはドイツ民衆のナショナリズム的な傾向であった。ローザには古い傾向のユダヤ人と云うものが描かれていて興味深かった。つまりユダヤ特権階級に属する彼女は徹頭徹尾、善意の人なのである。ロシア文学を愛する彼女は過剰にロシアに期待する人なのである。その彼女が裏切られるのはプロイセンの強権主義的なドイツではなくて、ヴァイマールの時代のドイツなのである。ドイツの共和政体は何をしていたのか。まるで闇から闇に葬られるのように、襤褸屑のように彼女の遺体が民間の兵卒によって橋から突き落とされる最後の場面は哀切である。
 この映画は、80年代と云う制約もあるのか、女性のための映画と云う枠組みが同時に制限とも長所ともなっている。ローザが、あれほど普遍人であったはずのローザが、恋人のただ一回限りの浮気を許すことが出来ずに絶交してしまうなどと云う事は、古いと云うよりも政治的理念に疑念を生じさせる。政治的理念としては崇高でも、また類似の愛欲の悩みには適切な助言を与えることもできる彼女が、いざ自分の事となるとそうはいかずに古い体質を見せる、そうした矛盾、そんな人間臭さが彼女の魅力なのだろうか。
 女性のトロッタ監督はローザの生涯を英雄の生涯のようには描かなかった。民族主義が観念としてではなく物理力として彼女に歯向かったとき彼女が口にしたのは、殺さないで!と云う事だった。彼女は権力と云うものを誤解していたのである。旧式の、プロイセンのドイツは少なくともある種の見識と教養に対しては敬意を払う事を忘れてはいなかった。つまり自分たちの理解できないもの、理解はしないけれども属することのない領域に関する不可侵の洞察力と云うものを民衆レベルでは弁えていたのである。しかし帝政と入れ替わって誕生してきた共和政体化の民主と民族主義は例外を許さない即物的なものの考え方をする「大衆」と呼ばれる人々であった。彼らの目にはローザ・ルクセンブルクと云えども見えたとおりの、生物としての女性、端的に一個の女を意味するに過ぎなかった。彼女は民族主義的な憎悪と嘲りの中で虐殺に近い殺され方をする。殺したのも正式の軍隊ではなく民兵に近いごろつきの様な一団である。この一団がやがてドイツの中産階級を浸食してヒトラーに道を明け渡す未来になるのだろうか、そうした暗澹とした幕切れであった。
 わたしは東京で偶然、映画『ハンナ・アーレンント』の広告を新聞の片隅に見つけたとき、なぜ今頃と云う感慨をもったものである。そして郷里に帰ってくれば同じトロッタ監督の映画が引き続き上映されることの中に継続する意思の様なものを感じて深く感じ入ったのである。

 少し前に、山本太郎と云う議員が天皇陛下に直訴の手紙を渡そうとして話題になったが、そのことの幼稚さよりも際立ったのは政界、メディアの過熱ぶりだった。児戯に近いような一幕もののコントが、笑いを欠いた真面目さ、重さにおいて厳粛な政治的事件として処理される、そこには深層心理的な問題さへあるような感慨に、ある種の既視感に捕らわれるのであった。
 むしろこの問題は誰かが言っていたように、今日においては天皇陛下こそが最後の「左翼」の拠り所となりつつある、と云う事だろうか。いつの日かわたしたちは山本太郎の事件を象徴的な事件として思い出すことがあるのかもしれない。ある意味では靖国参拝を拒み、昭和天皇の遺訓を頑なに守る今上天皇とは、小心と遜りの象徴であるにも関わらず偉大な時代であったのかもしれない、そんなことを考えた。

 そもそも今上天皇の父親である昭和天皇とは誰だったのだろうか。天皇人間宣言とは、象徴であると云う意味は?わたしたちが天皇に対して感じる親和の感情は、陛下が一貫して取ってこられた平民的な姿勢ゆえにではない。単なる人間であることによって、単なる象徴であることによって戦争責任を不問とする言葉以前の同意は、言葉に対する最大の侮辱として機能したであろう。その時から日本国民は言葉を棚上げして生きることを選んだのである。陛下が戦争に対する責任を放棄したと云う意味は、日本人の一人一人もまた戦争の記憶を放棄して白紙として生きる、より踏み込んで云えば国民の無責任を天皇お一人に背負っていただいたと云う事を意味していたのではないのか。国民は天皇人間宣言の中に許しの証を見た、と信じた。少なくとも小津安二郎の戦後八年目の『東京物語』はそうした人々の動静を間接的に描いたものであるし、十二年目の『東京暮色』が不評であったのは、そうした戦後史的な過程で切り捨てられるものの叫びに、醒めた無関心な時代が到来しつつあったからであると思う。

 しかし抑圧された国民の無意識は伏流として流れ続け、それが大規模に噴出するのが、例えば60年安保の時代だろう。当時の総理大臣岸信介に対する憎悪は国民の戦争責任に対する自己嫌悪の反転した姿であったのかもしれない。人も知るように岸信介満州国建国等で暗躍した、大政翼賛時代のイデオロギーを最も純粋な形で象徴するテクノクラートであったこと、戦前戦中の右翼が持つかかる近代主義的な側面がこそ戦後を生き延びて、高度成長期の哲学等に結実することには多言を要しないであろう。つまり技術は如何なる政体であろうと如何なる時代であろうとも「役に立つ」ものであること、科学技術はイデオロギーを「超越」しうるものであること、かかる岸流のザッハリッヒなテクノクラート的思考に対して湯川秀樹らのノーヴェル賞的平和思想や反戦思想が如何に自らを差異化、差別化できたと云うのだろうか。彼らは厳密な意味での言葉の感性と言うものを欠いていたのである。

 かかる意味で60年代後半の世界的なスチューデントパワーの盛り上がりが言葉の感性をめぐる戦いでもありえたことは理由があったのである、自己否定、大学解体、と。一方、フランスではむろん、サルトルボーヴォワールも活躍した。しかしそれ以上に本質的な影響はマルグリット・デュラスの文学の上に、深刻に、アウシュヴィッツ経験以降の文学として影を落としたのではないかと考えている。
 1958年の『モデラート・カンタービレ』は、ヌーヴォーロマンもどきの、「作者の視点」を欠いた客観主義の小説ではない。人を単純な「もの」、物体に還元して描くと云う手法はデュラスにとってのアウシュヴィッツ経験を意味している。1964年の『ロル・V・シュテイン』の「歓喜」とも「喪心」とも訳される書物群に於いては、言葉の喪失と云うアウシュヴィッツ以降の経験を語っている。ユダヤ性に対する心理的同化は、デュラスの場合は「並々ならぬ関心」と云うよりは、『苦悩』『戦争ノート』などを読むと、自らをも含めた加害者性と云う意識が伏線として流れている。それを読み取ることが出来なければデュラスはさわりや決め言葉の上手い作者であるから、単に感傷的な語り手と云いう以外の評価は難しい。彼女は有史以来なされたあらゆる不正なものに対して抗議しているのである。抗議は激烈であるがゆえにときに悶絶もどきの痙攣と絶句を引き起こし、彼女を内蔵の不治の病へと追い込むほどのものだったのである。

 ・・・・・こんなことを、とりとめもなく考えるのであった。


【付記】  日本とフランスの文学者の違いは、日本では小田実高橋和己のような「政治参加」のレベルで受け止めた文学者はいたけれども、政治的状況を文学のレベルで、言語として、固有の表現の問題としてとらえた文学者はいなかった、と云う点であろう。むしろ当時は、文学としてとか政治の問題としてとか、区別して議論することがおかしいのであって、人間として考えることが大事なのだと云う考え方が主流であった。
当時、翻訳王国であると云われる60年代の日本においても既にデュラスは有名であったけれども、アウシュヴィッツ経験以降の文学者であると云う理解はなかった、と思う。言語表現の固有さの中に政治性と文学性を同時に読み取ると云う読み方は当然成立しなかった。今でもデュラス研究において多数派かと云うと自信をもって答えることが出来ない。

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