アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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フランス映画『冒険者たち』とユダヤ性 アリアドネ・アーカイブスより

フランス映画『冒険者たち』とユダヤ
2014-02-19 11:21:36
テーマ:映画と演劇






お伽噺めいた冒険活劇なのに、前後の脈絡から外れて出てくる、まるで中世の様な山の寒村の風景、羊の群れの中に埋もれるようにして沈黙の言語を語る風景が遠い昔の予言者じみて、そこだけが妙に印象にのこる映画ですね。
 三人の、それぞれに持ち味を異にした俳優の、素朴と云うよりどこか稚拙な演技がみせる長閑さ、その中で突如語られるユダヤ性、フランス系ユダヤの人々が戦時下に被った惨禍が沈黙として語られ得ないがゆえに、棚引く風が揺らす少女の茶褐色の髪の毛の中で埋もれるようにして見返してくる眼差しの金色の透明さと云うものが、わたしたちが観念的に考えるユダヤ性と云うものと不思議に合致するのです。


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。 感傷的な冒険活劇、と云うだけでは済まない感じですね。ヒロインのジョアンナ・シムカスと云う女優さんが、美人と云うよりも中性的な感じで、ドタバタ劇の渦中であっけなく死んでしまうのですが、彼女を中においた二人の男の友情と云うか、死んでしまったものたちに対する慕情と云うか、特に今回観て感じたのは、ついでのように映像の中で、唐突に触れられるヒロインの過去の儚い過去と履歴、戦時下を潜り抜けたフランス系ユダヤの人々の歴史、寡黙に語る羊飼いの山村の老夫婦の沈黙の言語、石積みの、これは廃墟か中世の僧院を思わせる、コルシカか離島の山奥を思わせる僻地の、厳しい環境で語られる一枚の写真を間に挟んだ老夫婦の語らい、沈黙ですね。戦時下に、こんなところにまでナチスの手は及び、そしてどのようにして子供を守り抜いたかをこの映画は語らない。

 対照的なのは、もう一つの、物心がついてからヒロインがお世話になった、これはブルターニュと思われる海辺の寒村での遠い親戚たちの回想に出てくる、正反対のヒロインの肖像である。彼らの断片的な思い出話から分かるのは、始終、問題を起こしていたのかもしれない反抗的な思春期の肖像である。
 一方では、良い子だったと過去を懐かしむように語られ、他方ではその存在が厄介者視された、二つの相異なる証言の間にこそ、挽歌として語られなければならない自伝があった、ということだろうか。

 映画は、車のスクラップ置き場から始まる。ヒロインは工業製品のスクラップから金属溶接でオブジェを造る前衛芸術家、という設定、二人の男はレーシングカーの開発に夢を掛けるアマチュアのエンジニアと、凱旋門の下を二翼のプロペラ機で潜り抜けようとして失敗するパイロットの、何れも俗世や世間と云った戦後世界から外れたところにいる三人の物語、だから「冒険者」。
 映像は、60年代のパリの変貌も映していて、そこには郊外に林立する高層アパート群やハイウェイを描き出す。戦後が、物質的な安定をもたらし、日常性の枠組みが確固たる実在性の感じを与えるにつれて、彼らはことごとく自分たちの夢の実現に失敗するし、「戦後」を「冒険」と感じなければならない、そういう意味で「冒険者」。

 ヒロインがあっけなく死ぬことの意味はなんだろう。少年のように性も未発達であれば人生観も未発達な少女があっけなく死ぬ。それを悼む青年と中年男は、終始、少年のように描かれる。この映画には、性が不在なのである。
 二人の男が、ヒロインに寄せる恋情は儚く、友情のないまぜられたものとしてある。思春期の終わりのように、友情か恋情かのいずれかを選ばなければならない時が来る、しかしその時を選ぶことは、自分たちの最も美しい何かをみ失う時でもある、だから美しきヒロインは死ななければならぬ、こうした感傷の美しさはフランス映画特有の現象であって、思春期と青年期の間の束の間の過渡期を、ある種の独立性あるものとして描くと云う事は、映画がどうである以前の、背景の文明が成熟していなければならない。この映画のヒットを機縁として様々な類似の映画が造られたと聴くが、フランス文化の、戦後の過渡期と云う、限られた時間と空間の中に限定的に成立した事情を、他国の文化がそれなりに消化すると云うのは、興味ある条件かもしれない。

 さて、お話の方は、ヒロインが死んでも後日談が続いて、ヒロインが第二の故郷に夢見た、モンテクリスト伯に出てくるような海上の要塞を人の住める場所にしたいと云う、残された二人の男たちのお話は続く。ついでに言い忘れていたのだが、戦後のそれぞれの夢に挫折した三人は、巧いこと、夢のようなアフリカのコンゴ沖で宝物を探すと云う冒険譚を実現するのだが、その金銭をめぐるお伽噺の活劇の中でヒロインはあっけなく死ぬことは先に書いた。そこで残された二人は、そこで得た資金を基に死者の残夢の残り香を実現しようと云うのである。

 これは、お話であるので深刻に受け止める必要はない。ヒロインの薄幸と云う事とユダヤ性と云う事が、映像の美しさの中で十分な均衡を保っていたと云う事を言いたい。そのヒロインの残夢の実現の場である海上の要塞にも悪者たちの現世の欲望は追っかけてきて、仕掛けられた銃撃戦の中で若者は負傷し亡くなる。死ぬ間際に二人の男たちは、本当にヒロインが愛していたのはどっちだったろうかと、長閑な議論を交わすのがご愛嬌である。中年のおじさんの方は実際に愛を打ち明けられており、それで青年の方は一時はパリに去っていたのだが、ここは友情のために、死に逝くものに、お前の方を愛していたのさ、と云う。青年は、嘘つきめ!と云って笑みを浮かべて死んでいく。

 感傷的な場面だが、こうした場面を臆面もなく描けると云うのがフランス映画と云うものの王道なのですね。それで、感傷は脇において、本当に愛されていたのはどちらだったろうかと、わたしなりに謎解きをしてみる。
 キーポイントは、この映画は性を介在させない映画である、と云う事である。結論はヒロインが愛していたのは青年の方である。それはヨットでの船上生活の所作から明らかである。ヒロインにとって青年の愛を受け入れることは現実の様々に困難な雑事を受け入れることである。愛を受け入れる用意が出来ていないともいえるし、愛によって損なわれるものを愛おしんだともいえる。二人の男から愛を申し受けたものの不決断の決断、決断の不決断である。ヒロインはかかる過渡的な存在の象徴であるがゆえに、あっけなく死ぬのであるし、慕情だけを男たちに残すのである。
 ところで性を介在させない愛とは、父性愛もその中の一つである。父と云うものを知らないこと、父性と云うものが歴史の過酷な運命の中でユダヤの一人の子供を守るための城壁として機能したエピソードがあったこと、それが海上に浮かぶ城塞都市の隠喩でもあるし、そんな戦時下の異常な記憶が、この映画の中で描かれるわけではないが、水際だったユダヤ性の記憶としてこの映画を記憶にとどめるものにしているのである。