アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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トマス・ハーディ『狂おしき群れをはなれて』 アリアドネ・アーカイブスより

トマス・ハーディ『狂おしき群れをはなれて』
2019-03-01 23:54:28
テーマ:文学と思想


 『狂おしき群れを離れて』は、一人の未婚の女性バテシバが結婚とは如何なるものかを考えて、人生の途上で遭遇した三人の様ざまの男性像を通して成長していく、と云うメロドラマ風の叙事詩的な物語である。

 ハーディの出世作とも云われるこの作品、なかなかに読ませますし、なかなかに老成した作品と云えます。新進作家の作品にしては、燻銀のような風格があって、例えばジェイン・オースティンの有名な『説得』や『分別と多感』などを読むような芳醇な読後感を得るよな感じなのです。近代産業化文明や中世的キリスト教に対する反感や批判はこの作品では未だ顕著には現れてはいません。それがこの作品のエンターテインメントとしての長所にもなり短所にもなっていると思います。

 三人の男を簡単に紹介しておきますと、第一に実直な小牧場主のオウク、第二に村の威厳ある有力者ボールドウッド、第何にいなせな洒落物にして放蕩者トロイ軍曹である。身寄りのない女主人公バテシバは野心故に実直なオウクを物足りないものとみなし、身分故に候補者の枠から外し、父親のような存在であるボールウッドの気を引いてみようと不用意にもコケットリーを使ってしまいます。ところが世知に闌けた筈の年配の独身主義者は俄然目覚めて一途な性格を取り戻すのですが、しかし彼の恋愛観は所詮美しい妻を得ることが目的であって封建的な旧来的な価値観を逸脱するものではありません、つまり近代的な恋愛の機微を理解するような対象ではないのです。三番目のトロイ軍曹は前者二人の男たちとは異なり、都会生活も経験し、かつ家柄もよく学歴もあるのだが、没落貴族の末裔である彼は貧しく、金銭的な理由と愛欲の達成感のみのよってバテシバは利用されてしまう結果になります。彼には婚約できないファニーと云う貧しい娘がいました。彼女は婚約を反故にされたまま貧困のなかで病死してしまう、と云うもう一つの物語が表舞台の背後で、ちょうど裏オーケストラのように弱音気を付けて、微かに、ため息のように、しかし表世界を震撼させるような不気味な裏世界の迫力を秘めて、語られるのです。
 気味の悪さは例えようもありません。

 やがてバテシバと結婚したトロイは様々な出来事があって最後に近い場面では、まるで死に場所を求めて流離う野生のなれの果てのような、執拗に帰郷の道行きを辿るファニーの死と、そしてやがて明らかになる埋葬の一連の出来事から、重婚めいた事情が明らかになります。トロイは村にいられなくなってを謎の出奔いたします。しかし一年ののち、妻の美貌を尚も忘れがたく、自暴自棄になって帰省したところを、嫉妬したボールウッドに、パーティの夜に無残に射殺されてしまう。
 一瞬の惨事は何が起きたか分からないうちにやがて硝煙が消えていくになって明らかになった殺戮の現場は、あれほど忌み嫌われた筈のトロイが血にまみれてバテシバの膝を枕に横たわると云う、名画「ピエタ」wp彷彿とさせる、凄惨にして沈痛な一場面なのです。この謎は後に明らかになります。

 罪の意識に駆られたバテシバは罪業に苦しみ自殺まで思いつめるのだが、物語の最後では憑き物がとれたように、自分の身の回りを二十年間の長きに渡って世話をしてくれたオウクこそ自分の恋の相手に相応しいものだと今更ながらに思い当たって、自らの意志でオウクの家を訪ねて行くのです。ヴィクトリア王朝期時代の価値観が重苦しく支配していた時代に、愛や恋とは男の方から言うべきものだと信じられた時代に、最後は成長した近代的な女性として自らの方から男に愛を告白する、この場面が素晴らしいですね。こうしたことができる、つまり周囲を気にせず、支配的な道徳観や価値観を相対化し自分の固有な価値観を支える、かかる彼女の果敢な性格は冒頭の場面より、荒馬を乗り廻す自然児としての娘としての設定からも帰結できたはずのものでした。

 この優れた作品もまた、二通りの読み方ができます。
 ひとつは、

「男女の愛は、単なる快楽に基づいて結ばれる時、それは、泡沫の恋である。堅実な愛とは、共同の労働を通じて生まれる友愛であり、これが恋愛と一つに融合する時、死の如く強い唯一の愛になり得る」
 
 と作者が書く時の、ヴィクトリア王朝期のまるで経帷子のような一見強固にみえる倫理観を踏まえて書く時の、ジェイン・オースティン風のラブロマンスである。
 他方において、軽薄な放蕩児にして洒落物トロイを描くときも単なる見てくれの素敵な都会風の上辺の軽薄な男と云う風には描いていないのですね。むしろ貧しくて病死したファニーと赤ん坊の二人を入れた棺に腰をかがめて接吻する荘厳な場面にもみられるように、軽薄者であるにも関わらず見捨てられた妻と嬰児を悼む彼の姿は悔悟と愛の無償性と云うものをを知っているのです。自分が本当に愛したのは目の前に横たわっているファニーであることをバテシバの前で狂気のように宣言し、一夫一婦制を痛烈に批判するところは、この小説の隠されたクライマックスと云ってよいでしょう。

 つまりトロイには、ヴィクトリア王朝期の倫理観と価値観に雁字搦めにされて小説を書かざるを得なかった当時のトマス・ハーディの意識せざる無意識の発露とも云える面があって、『帰郷』の自由奔放な自然児とし描かれたあの印象深き娘、ユースティシアの先駆なのですね。つまり建前はジェイン・オースティン風の、あるいはヴィクトリア王朝風の、在来的英国的ジェントリーの質実剛健とも云える気風、美風を賛美、賛嘆するような作品を書こうとしながらもなお、作家の無意識はそれを無意識に裏切ってしまうと云う、作家の書こうとしたものと書かれたものとの鬩ぎあいが描かれる、ということになったのです。
 かかる作品としての分裂は、たしかに芸術の完全性と云う観点からは短所になるのかもしれませんが、文学としてはトマス・ハーディの文学に、一筋縄ではいかない、時代的かつ歴史的表現者としての地層学的言語のパノラマ、芳醇にして涵養豊かな格調高き、将にこれぞイギリス文学の神髄であると云う陰影を与えているのです。