アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

戸田吉信著『ギュスターヴ・フロベール研究』アリアドネ・アーカイブスより

田吉信著『ギュスターヴ・フロベール研究』
2014-02-26 22:03:51
テーマ:文学と思想




・ ギュスターブ・ㇷロベールの研究と名うってはいるが500ページの全てが『感情教育』についての論攷である。

 『ボヴァリー夫人』と並んで代表作とされながらなぜか高名な割に言及されることが少なかった『感情教育』が本当の意味で読まれるようになったのは本国フランスにおいても1960年代以降の事であると云う。一つには初期の草稿類が発掘されたことにもよるのだろうけれども、何よりもまず作品数の少なさ、しかも代表作が一つ一つ異なっていると云う事になると、作家論としての手掛かりが掴みにくいということはあるだろう。
 『ボヴァリー夫人』、フランス文学固有の人妻もの、不倫ものの典型と云えばいいのだろうか、20世紀においてももーりアックやマルグリット・デュラスまで様々な形で影響を与えている。この小説の影響の深さはボヴァリズムともいうべき名称を流布させたほどで、実を言うとボヴァリズムがバルザックの『谷間の百合』やシャントブーリアンなどの古典的なロマンス――正確には18世紀ロマン主義、の伝統を批判的に踏まえて書かれたアンチロマン、言い換えれば19世紀フランスにおける近代の『ドン・キホーテ』を名指したヨーロッパ文学における正系に連なる作品でることが明らかにされる。
 そして『感情教育』、このほかにも一般には『サランボー』や『聖アントワーヌの誘惑』などが知られているが、後者は未だ読む機会を得ていない。前者についても読んだのは昔で、古代カルタゴと云う余りにも未知の話題ゆえに判然とした印象を残さずに今日に至っている。要するにフロベールの小説は難しいのである。

 フロベールの事が気になってはいたのだが、敬遠し続けていた彼の著作について久しぶりに、『ボヴァリー夫人』ほどには言及されたことのない『感情教育』を手に取って一気に読んでしまった
 何が素晴らしいと云って、冒頭の青年が夫人と出会うセーヌ川の川の旅の瑞々しい美しさであり、第二部の臨場感あふれる1948年の二月革命を描いた場面であった。そして最後の二十年後夫人と別れの挨拶を交わす幕切れもまた素晴らしい。そしてとりわけ、若い恋人と二月革命の騒乱のただなかにあるパリを去ってフォンテンブローを彷徨う逃避行の、凛とした自然描写の美しさには定評があったらしい。今回読んでみて戸田の指摘のいちいちに頷かされるのであった。
 
 やはり『感情教育』の難しさは背後の三度の共和制を含む王政復古、二度の帝政を踏まえた19世紀フランス近代史の複雑さにあるのだろうか。7月革命、二月革命、パリコミューンと云っても先後関係を云う事が出来ない。そしてこの書を本当に読むためには背後のフランス革命史を理解することが必要であることが戸田の本を読むことで分かりかけた。
 つまり二月革命とパリコミューンにおいて頂点を築く人類史の壮大な夢と挫折が、人妻との不倫と云う卑小でもあれば矮小な出来事の起承転結と並行現象として語られているのだ。そういえば納得できるのだが、戸田に指摘してもらうまでは明確には理解していなかった。
 『感情教育』とは、未だ年若い青年の情操的な感情教育であると同時に、人類の青春と云う壮大な夢と挫折を描いた雄渾なる近代の叙事詩なのであった。

 『感情教育』とは、一言で言えばどのような人間にもボヴァリー夫人のような瑞々しい青春の時はあるものだ、と云う事だろう。そしてある時から人は自分自身を理解しなくなる。他ならぬ自分自身が他者になったことを理解できない、徹底的な忘却と云うものを経験するのである。
 『感情教育』の狂言回し的ヒーロー。ギュスターヴ・モローが様々の女性遍歴の果てに全てを取り落とし取り逃がすように、ギュスターヴ青年を取り囲む青年群像もまた、あるものは夢を実現しあるものは夢を見失う。人生の悲惨さとは、挫折した側のみにあるのではなく、成功した側においてもまた、――その時は本来の自己を忘却すると云う代償を払う事によって人生の成功と云う名の絡繰りを手にすることが出来る、と云う逆説が明らかになるのである。
 『感情教育』の最終章は、幼馴染の二人がよくある老人の昔話のように過去を回想するなくもがなの場面で終わる。二人とも何一つ志を遂げることなく生涯を終えることになりそうなのだが、実は人生の真実とはそのような成功失敗のことどもにあるのではなくて、先ほども述べたように自分自身に対する根源的な無関心、根本的な忘却にあること、そのことを誰も理解しえぬと云う点にこそある。
 『感情教育』は誰一人断罪しない。誰ひとり例外はなく人生の誌と真実に見放されたまま生涯を終わるのである。自分たちが生きた時代が、人類の青春時代と云う、比類なき黄金の輝きを持った時代であったことを誰一人として理解することなくこの小説は静かにエンディングを迎える。