アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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西南学院大学国際文化学会を聴講して アリアドネ・アーカイブスより

西南学院大学国際文化学会を聴講して
2014-03-22 23:38:46
テーマ:文学と思想




http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/4926/1/1591053119984.jpg


春の日の午後、西南学院大学国際文化学会の午後の分科会を聴講した。
 ・栗原詩子(西南学院大学准教授)「映画『赤い靴』1948の形式美について――階段と列車が織りなす構成――」
 ・稲田大貴(北九州市立文学館)「«作者»とテクスト、その«違和»の手触り――三島由紀夫金閣寺』を中心に――」
 ・森田團(西南学院大学准教授)「諸言語の生と志向性――ヴァルター・ベンヤミン«翻訳者の使命»における歴史の概念」

 栗原詩子先生の「映画『赤い靴』1948の形式美について――階段と列車が織りなす構成――」は一般的には大衆受けのメロドラマか、「女性の職能と障害と云う社会的リアリティに対応しているために、この側面での受容ばかりが進んだ」(当日のレジュメ)と云うこの作品について、つまり一方では専門家の間では評価を得られず、他方ではもっぱら感傷的なフェニミズムの脈絡でのみ受け取られてきた本作についての、フォルマリズム(形式美)の観点からの再評価の試みである。
 そこで発表者が注目するのは、映画の冗長性、そこから導き出される感情の上昇性と下降性が描く放物線上の形式である。云うまでもなくドラマの頂点で上り詰めたヒロインは最後に、下降の極みとしてバルコニーから列車に身を投げて死亡する。轢死した遺体は映画だからあくまでも美しく、脱がされる赤いバレーシューズは劇中劇の場面をなぞり、見事な入子構造の様式美を完結させる。
 発表の後半は映画を特徴づける冗長性とは、ドラマの進行とは一見無関係に描かれる移動手段としての「徒歩」・「馬車」・「自動車」・「列車」の意義について語る。「徒歩」は「何者でもない個人」を「馬車」はラブストーリーを、換言すれば日常を超えた世界への飛翔を、「列車」はヒロインを死に至らしめる現代社会に固有の何者かを象徴している。何者かとは、現代社会に於ける女性が生きる様式としての、ビジネス、芸術的興行、芸術至上主義、そして結婚である。そして本来はこれらの脅威から弱者を守らなければならない宗教が、実は世俗の権力や慣習と基底において通底し、抑圧に加担していることも過不足なく描かれている。
 わたしは映画を見ていないことを断りながら、オペラ『トスカ』との類似性につてどのようにお考えか尋ねてみた。一方に女の運命とは無関係な男たちの世界があり、他方に女に固有な世界がある。ヒロインは芸術にも固有な個人の幸せの世界にも、そして宗教的世界にすら拒まれて死を選択する。両作品における階段や「赤色」のモチーフの使い方、女の愚かさを演じる中で死んでいく在り方までよく似ている・・・。
 当日はA,B両会場に分かれており、わたしはいとまを惜しんで移動したが、先生はわざわざわたしを別の会場まで追いかけてきてくださって、最高の質問でした、とのお褒めの言葉を戴いた。なぜ映画を見ていないのにアリアドネさんはあそこまで分かるのですか。栗原先生はまるで少女のように眼をきらきらさせる話し方をされる。
 公演と公演の間の短い立ち話では、わたしがある先生の名前を口にするとご存じで、以前わたしが社会人大学院生として学んでいた学校で2007年まで助教をされていたことも分かって、こちらの奇遇の方にも驚いてしまった。わたしが『トスカ』に触れたときに返されてきた笑みに、わたしも何か感ずるところがあったのだ。共通の音楽系の先生の名前もちらほらと二三出てきて得体の知れない老人の出自に納得されたようでもあり、こちらは思い出が風のように瞬間通り過ぎた。
 稲田大貴先生の「«作者»とテクスト、その«違和»の手触り――三島由紀夫金閣寺』を中心に――」は三島由紀夫の小説『金閣寺』について、何故青年は金閣に放火したのかを探る動機探しの小説であるのか、それとも放火が成されたと云う時点でそれを書きはじめると云う行為を選択する物語、書くと云う行為を通じて読者と云う名の他者に対して開けていく物語であるのかと云う問いを提出している。問題提起がとても分かりやすくまとめあげられているのに感心した。
 ここでのわたしの質問は少々意地悪かったことを反省している。
 講演内容の論旨の中にある認識と行為の問題、他者性であるとか、社会に開かれた読者性とか公共性であるとか、何かそれ自体を云う事が肯定的にとらえられる現状があるが、冒頭にあったロラン・バルトの「作者の死」などを持ちださなくても、例えばジョイスの文学のように読者がいない文学、と読み手を必要としない文学、と云うものが現代文学の一角に、確実に存在していると云う状況についてどのように考えたらよいのか。
 認識と行為、書き手と読み手、主観と客観の二項対立を超えた作品の自体的存在についてはどのようにお考えでしょうか。作品の自体的存在とは、オルグルカーチが言う形象的認識と云うほどの意味で用いているのですが、ややこしい質問をして申し訳ありません。
 ・森田團(西南学院大学准教授)先生の「諸言語の生と志向性――ヴァルター・ベンヤミン«翻訳者の使命»における歴史の概念」は翻訳と云う行為を意味による変換行為であることを超えて、志向性に着目する、――志向性を志向されるものと志向するものとの二重性において考え、前者を通常の翻訳と云う行為、後者を翻訳と云う行為にのみ固有な、単一の言語では決して現れてはこない純粋言語と云う概念を導く、純粋言語とは実に不思議な概念である。純粋言語とは単一の言語観の中では決して顕れることがなく、翻訳と云う固有な行為においてのみ現れるのであるが、翻訳と云う行為は決してこの究極の概念に到達することはできない、一種の限界概念なのである。
 また「諸言語の生と志向性」と云う場合の「生」とは、諸言語が歴史と時間の中で生成すると云う意味である。言語が「諸」言語であると云う複数性においてこそ、純粋言語と云う理念が可視的なものとなり、固有な現実性を獲得する場とは歴史と云う場においてこそなのである。
 わたしは純粋言語とは、レジメの中にあるようにプラトンイデアに似たものかと問うた。何分初めて聞くような話なので、わたしの大まかな理解の仕方――イデアが歴史性の中で固有な現実性を実現するロマン主義的な理解で大きくはずれていないか、と問うた。大きくは外れていないと云う思いやりのあるお答えであった。但し、ロマン主義云々には抵抗感があると。
 また別の質問者からは、イメージやフィジカル(物質)はどのような位置づけになるのかと言う質問があった。明確な説明が出来るだろうかと云う断わりがあって先生は丁寧に説明はされていた。
 そこで時間切れになったので演台の前で少々の立ち話を、――わたしはその質問者の意義について、とりわけ物質について次のような思い付きを思い切って述べてみた。純粋言語が、言語と云う媒質を通過するとき固有な歪を生むと云う御話であるが、固有な歪とは両義的で、それを歴史の方から見れば」言語」であるし、それを自然の方から見れば「物質」、先ほどの質問者が提起していた物象化の問題やマルク主主義的な疎外論の問題につながりうるのではないか。言語の世界を中心に、前には先言語が、周囲には非言語の世界がある。言語は歴史に固有だが、自然は非言語的世界をも含むものではないでしょうか。
 森田先生は大らかに頷いておられたが、こちらは無知の長饒舌に密かに赤面したことであった。