アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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個体性の輪郭――3・11を潜りぬけたある芸術論――映画『赤い靴』とオペラ『トスカ』、施設に暮らす アリアドネ・アーカイブスより

個体性の輪郭――3・11を潜りぬけたある芸術論――映画『赤い靴』とオペラ『トスカ』、施設に暮らす
2014-03-24 12:33:37
テーマ:文学と思想



 先日、西南学院大学での国際文化学会学会の分科会で栗原詩子先生と云う方とお話をする機会を得て、――そもそも栗原先生の講演は、従来専門家の間では低い評価に甘んじてきた映画『赤い靴』を、その冗長性に着目して、移動手段としての階段や列車、馬車や車と云うものの持つ隠喩を通じて、主としてフォルマリズムの観点から再評価を求めるものであった。
 わたしは、オペラ『トスカ』が大変類似した内容を持っているように思われたので質疑と云う形でお尋ねしてしてみる気になった。先生は二時間以上も私を探し求められて最後の会場で、赤い靴の中で描かれている芸術や芸能は事業や興行として描かれている、と確信したようにおっしゃられた。オペラ『トスカ』が男たちの野心に満ちた世界の他方で、女に固有の世界があって、世俗にも行けず宗教的世界からも拒否されて死を選ぶほかはなかった女の愚かさを描いたオペラである。映画『赤い靴』もまた、バルコニーから身を投げる悲劇的結末まで、レルモントフに代表される芸術興行の世界に生き得ず、恋人の作曲家の愛を確信しし得てもなおかえって、彼が求めるものが家庭の主婦の座であると云う、何れの芸術の方向にも世俗の人間関係を見出さなければならなかった女の、世俗にも芸術にもはたまた宗教的政界にも行き場をなくした女の物語なのであった。そして共通する大事な点は、ともに悲劇が、女の愚かしさと云う形を取らなければならなかった点である。

 わたくしは、悲劇が女の愚かしさの形を取らなければならないと、書いた。女の愚かしさ、あるいは愚かしい女と、愚かしさの役割の中で死を選ぶと云うこととは違う。愚かしさを演じるとは、関係性の中で言語以前の孤独、不可能性の中に、見捨てられてある、と云う状況である。しかし、その非言語的な思いは、悲劇を選びとると云う行為の中で唯一無二とも云える表現を獲得するのである。
 自分自身の孤独が、良く見えていた、と云うことである。世俗に生きえず、芸術や愛の中にすらその反対物を見出さなければならず、宗教もまた彼女たちのために阻まれてあると云うものであるとするならば、ここにも自分自身の孤独が、個体性の輪郭の中に現れていた、と云う事を云いたいのである。
 関係性の中での孤独ではなく、いかなる関係性からも剥奪された、赤裸々のままの孤独、明瞭この上ない個体性の輪郭、わたくしが『施設に暮らす子供たち』に注目したのもそうした理由からであった。

 実を言うと、わたしはフランスのマルグリット・デュラスと云う作家の本を四十年ほど読んできていて、――中断期間がかなりあったが――何と何が傑作で、どこに固有な問題作があるか、と云う点については私なりに確信してはいるのだが、晩年の『戦争ノート』や『苦悩』などがある種の感動を与えるのに一流の芸術作品ではない、と云うもやもやとした感じを抱いて来ていて、その理由と云うのが処女作『太平洋の防波堤』にも共通する、女流作家に固有の視野の狭さではないか、などと不遜にも思ってきたのであった。

 その朦朧とし閉塞したわたしの文学観を切り開いたのは3・11とりわけフクシマの出来事であった。あれから三年たった今年の同じ3月11日、同種の問題提起型の番組の圧倒的な数の少なさに違和感を感じながら、テレビ朝日が放映した特集の一場面にわたしは釘付けとなった。それは雪の降る日に、運動場で無心に部活に打ち込む子供と、それを震災の日々に止めることが出来ずに甲状腺癌の摘出手術をした母親の無念の思いが綴られる。この場面は、原発事故と子供の甲状腺癌の関係を告発した映像では実はない。それを止めることのできなかった母親の無念さが、事故と甲状腺癌との間に有意な関係はないとする、オーソライズされた福島県と県立医科大学の公式見解によって、母親として真相を明らかにし得ずしては子供の前に詫びることすら出来ない、と云う無念さを描いたものとして私の目には映じたのである。

 子は癌ではないかと疑う母、疑心暗鬼に陥って狂気のようになる母親と、彼女の妄想と戯言の中で破壊される家庭を傍観せざるを得ない夫と、その他の親類縁者、そして世間、この世界こそ、夫と愛人の二人から「きみはそのうちあらゆる妄想と戯言を言うようになるだろうよ」と云われたデュラス『戦争ノート』の世界そのままなのであった。
 わたしとあなたが、あるいは家族が、世間や社会から差別的な扱いを受けると云うだけなら通常のドラマである。ここでは近代社会に於いて人間であることの基幹をなす家族が、そして一番親密であったと思われた人と人との関係が破壊される。

 『戦争ノート』と『苦悩』が描いているのは、女として愚かであるとかないとか以前に、世界に一個の存在があって、その存在が自分にとってかけがえのない存在であろうとなかろうと、個の尊厳ゆえに、ひとは愚かですらある状況を恐れない、と云う点なのである。任意の存在が、利害損失を超えて、自分にとってそれが利己的な感情であろうがなかろうが、唯一の個体性として眼に映じるならば、愚かさの役割などは問題にならない、と云う実存的なメッセージなのである。
 デュラスにとっても、福島の母親にとっても、自分が直面した状況が、個体性の輪郭を帯びていたに違いない。母親の愛情はしばしば愚かさの象徴として描かれたりもする。しかし子を思う親の愛は、母親ゆえの愛、わが子ゆえに愛すると云うものとは違うのではないのか。母親ゆえに愛する、わが子ゆえに愛すると云うことと、母子をめぐる状況がある関係性の中で抜き差しならぬ個体性の輪郭の相として現れる、と云うのとは少し違うのではないか。ある行為が、それが自分だけに成し得る行為であると感じられるならば、それは個体性の行為なのである。子供を失って狂気のようになったデュラスも母親もこれをエゴイスムと云う言葉で言い表すことはできない。

 また別の報道番組では、レポーターが長年現地で活動しているリーダーからこう問いかけられている。――どうして東日本の震災ではこんなにも多く車の中で亡くなった人が多いと思いますか。我先にと逃げ出したからではないのです。助けたいと思って引き返した人が少なからずいたと云う事なのです。
 あの日、町役場で避難放送のマイクを握りしめたまま高波に浚われて殉職した女性職員の死も、あるいは震災を遠く離れた平和な日常の中で、線路で倒れている老人を助けるために、父親の目の前で制止を振り切って踏切の中に飛び込んだある無名の女性も、ヒマラヤ単独登頂の直前で負傷した遭難者を救援した付加ゆえに命を落とした世俗にあっては有能なある看護婦長、そしてシリアの凶弾に幾度も幾度も射抜かれて戦塵の中で帰らぬ人となったある女性カメラマンの死も。彼女たちの目にも、事象が、現実が、それが宇宙空間の中で自分だけに関係のある、唯一さ、個体性の現前として現れたのだろうか。宮沢の『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネッラの物語は童話ではなかった。
 日本人、いまだ捨てたものではないと思った。