アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

『エーコの読みと深読み』 アリアドネ・アーカイブスより

エーコの読みと深読み』
2014-04-12 12:37:29
テーマ:文学と思想


http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/img/1dot.gif
一般 / 単行本 / 哲学・心理学・宗教(哲学)


http://www.iwanami.co.jp/.ICONS/books/1.gif


http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/img/menu01.gif
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/img/1dot.gif
 
エーコの読みと深読み
ウンベルト・エーコリチャード・ローティ,ジョナサン・カラー,
C.ブルック=ローズ
ステファン・コリーニ 編
柳谷 啓子,具島 靖 訳
http://www.iwanami.co.jp/.FIGS/00/2/0002080.gif
■体裁=四六判・252頁
■品切重版未定
■1993年5月27日
■ISBN4-00-000208-2 C0010

テクストにのめりこむほどに陥りがちな解釈の迷路.エーコが数々の古典や『薔薇の名前』『フーコーの振り子』の誤読を例にローティ,カラーらと渡り合った1990年の連続講義録.ユーモアたっぷりの読みのススメと深読みの戒め.

 


http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/img/1dot.gif
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/img/1dotgray.gif
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/img/copy.gif

 ・まるでわたしの読み方への当てこすりの様な本が出たと云うので読んでみました。記号論とかニュークリティシズムとか聞きなれない単語や言い回しが一杯なので、とても満足な紹介はできないでしょう。
 とは言え、オックスフォードとかケンブリッジだとかで開催された討論会に詰めかけた聴衆とはどんな人たちだったのだろうか。少なくとも大学受験などで、この本の作者の意図は何か?と云う問い方は間違い、作者と作品は最低切り離して論じる、それを踏まえてそこから望ましい読者とは何なのかを論じる、荒っぽい要約の仕方をすればそうなるのだろう。それが講演に詰めかけた聴衆にとっての条件だったようだ。

 一読して内容が難しいと云うよりも、彼らが前提として踏まえて議論している、戦後の文学史なり批評史についてある程度精通していないと、すんなりと頭に入ってこない、と云うところがあるのでしょうね。特に、彼らの皮肉やユーモアが分かりにくいのは、丁度、外国の知的な集まりで、議論を傍で、想像力で補いながら、何とか話題についていっている、スノッブな聴き手、と云う感じですね、わたしの立場は。

 エーコの、経験的読者と作者、含意的読者と作者、モデル読者と作者、そして「過剰解釈」を歯止めするものとしての「エコノミー」の概念なども、なんとなく分かるのですが、エーコの理論的な書物を一冊も読んでいないので――読んだのは『薔薇の名前』のみ――確信を持っては言えないようです。

 ただ、複数の論客が係る論争の長所は、それを複数の批判的観点から論議されているので、エーコの論旨が仮にわかりにくいものであっても、それを手助けしてくれるように外側からも理解するヒントを得られると云う点でしょうね。特に二番手の、リチャード・ローティは分かりやすい。書物には解釈さるべき本質などと云うものはなく、利用すべき複数の手順があるだけだ、だから「解釈」と「利用」、「読み」と「深読み」の区別なども無意味な設問、ヴィトゲンシュタイン風に言えば蠅取り壺に似た有意義でない問題設定と云う事になる、・・・等々。
 また、ジョナサン・カラーのローティに対する批判――作品は単に読み楽しみのために利用するだけでよいのか、感動の仕組みを知ると云う過程も、文学研究の在り方の一つではないのか。

 また、カラーのエーコ批判――エコノミーと云う概念で過剰解釈に一定の抑止力を与えると云うのは良いのだが、今日のように正典に対する実証主義的研究が充実してくると、逆に、過剰解釈の方にこそ、創造的な文学研究と楽しみとが期待できる契機ではないのか。エーコの過剰解釈批判が、何か正統な解釈があるかのような外見を与えることによって、素人や文学的アウトローの試みの自由度を阻害する保守主義的な要因として働くのを危惧すると!

 まあ、ざっと以上の様な感想を持ったのだが、それにしてもエーコの論旨の難解さは特筆出来る。その理由の一つは、ウンベルト・エーコの思想の記号論的な深遠さにあるのだろうとは思う。二つ目は「エーコの読みと深読み」とシンポジウムの趣旨がシンボライズ化されているように、エーコの側において過剰防衛の機構が働いているのではなかろうか。その理由の一つは、シンポジウムに招かれたリチャード・ローティの極端な分かりやすさが際立たせた対比の鮮やかさである。正直に言うと、エーコの論述では分かりにくかった場面がローティの率直なものの言い方を通して随分に助けられたのである。このシンポジウムを価値あるものにさせ、かつ詰めかけた公衆に対して広報の役割を果たしたローティの偉大さに敬意を表したい。

 二つ目はエーコが持ち出してくるエコノミーの概念である。エコノミーとは、テキストと読者の間を繋ぐ合法的な関係ともいうべきもので、奔放な妄想や過剰解釈を防止するためにエーコが持ち出してきた概念である。
 エコノミーとは、日本の翻訳者が要約しているように、「思考・推論過程に、無理、無駄がない」と云う事に一応はしておく。つまり伝統的なヨーロッパ的思考の在り方としては全一性の観点から、簡素な様式にこそ真実は宿ると云う意味だろうか。
 しかし、それにしては通常は人間の内的な経験に関わる読書や、美を鑑賞する態度と、経済学の用語そのものであるエコノミーの概念が素直に結びつくとは考えにくい。エーコの用語の使用法が適切であるか否かと云う以前に、美的な経験をエコノミーなる、通常世間で流布され慣習化されたものとして是認されている、同質とは考えられていない用語同志を結びつけるやり方が、そもそもエーコの言う「エコノミー」の原則を裏切っていはしまいか、そう思う。

 経験的読者とモデル読者の区分についても、後者が推奨されるものだとすれば、モデル読者とは作品と何か合法的な手続きによって、解釈したり、読書を楽しんだりする理想の人々の事であるから、これが硬直化すれば権威を振りかざした過去の講壇的文学研究や、ユダヤ教のラビの様な解釈の専門家、茶の湯の家元のようなものになってしまう恐れはないのか。エーコの真意はそこにはないと思うけれども、そうした若干の危惧を感じざるを得ない。

 そもそも「読みと深読み」と云うシンポジウムの設定をしておいて、テクストの範囲を限定しない一般論がそもそも可能であろうか。時を超えた永遠の文芸作品と、ちょっと出のベストセラーでは、テクストと読者の関係も違ったものであるに違いない。
 わたしなどの経験を言うと、シェイクスピア世阿弥などを読んだり見たりした場合に、作品そのものが語っているとしか思えない稀有の時間を経験することがある。作者の意図も、作品の意図も、モデル読者の存在も問題になりはしない。ローティの言う「解釈」と「利用」をめぐる議論も必要としない。作品自体が自らを語る、そうした稀有の瞬間が存在するのである。

 エーコにはジョイス論の権威としての難解な解釈学的な著作があるそうだが、幾重にも如何様にも読めると云われる『ユリシーズ』や『フィネガンスウェイク』等は、解釈学的にも面白いかもしれないけれども、実は作者も読者も必要としないテクストとは何かという問いを提起していると、わたしなどは思うのである。

 また、アメリカの偉大なる作家、ヘンリー・ジェイムズの作品の最大の特徴は、作者自身が嘘を言う、言い方に語弊があれば、作者自身が感情の偏りがあると云う事を隠さなかった点である。小説とはフィクションであるから、自在な作り話が可能である。登場人物には嘘つきも正直者もいる。しかしジェイムズの文学のように、大枠として、小説内世界においては神のごとき存在である「作者」が信用できないとなれば、誰を信じてよいのか、そうした人間存在の根本的な揺らぎの様なものをジェイムズは描いているのである。文学とは自意識の事である、と居直った小林秀雄とその戦後のお弟子さん達には及びもつかない世界なのである。

 ジェイムズの様な文学においては、作者の意図とか作品の意図。モデル読者の概念など問題になるだろうか。後にジェイムズ・ジョイスによって実現されるような、作品自体が自らを自己受精的に語るような作品が現実化されているのである。漱石なら、則天去私と云ったでもあろう。
 その迫力は、ドストエフスキーを超えて圧倒的である。