アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画 『赤い靴』――芸術論風に――二つの芸術論 アリアドネ・アーカイブスより

映画 『赤い靴』――芸術論風に――二つの芸術論
2014-04-15 21:39:47
テーマ:映画と演劇




・ 映画の初めの部分で、天井に近い最上部席に陣取ったファンたちが音楽とバレーに分かれて、自分たちの贔屓筋をもてはやして対抗する場面があるのですが、これは音楽に代表される純粋芸術と、オペラやバレーに代表される舞台芸術と云う、二つの芸術論の拮抗と云う、マイケル‐プレスバーガー共同監督が仕組んだ仕掛け、と考えることが出来ると思います。
 もちろん、レールモントフバレエ団の人気がどの程度のものであったかを、描く手段としてあったことも無視できないのですが。

 純粋芸術がどういうものであるのかは、映画の中では一か所だけ、レールモントフの嫉妬から劇団を去るべく追い込まれたジュリアン・クラスターが云う捨て台詞があります。――所詮、バレー音楽など二流の仕事だと!つまり一流の音楽家の仕事とは、ベートーヴェンの音楽のようなものを言うのです。ただ、ベートーヴェンの場合は純粋音楽ではなく、絶対音楽と云う言い方をするようです。

 芸術作品と作曲家の関係は、それぞれに別物だと云う理念が西洋では確立しています。つまり人間的な品性に関わらず、芸術作品としては高貴なものを造ることは可能でしょう。とりわけ、芸術の中でも女王の位置にある音楽こそ、限りなく人間的な臭みや属性を去った純粋な芸術として成立しうると云うのです。モーツァルトの音楽などを思い浮かべたらよいでしょう。

 しかし舞踏と云う身体性芸術の場合や、興行としての芸術、総合芸術としての舞台芸術の場合はどうでしょうか。純粋芸術を代表するのがジュリアン・クラスターであり、身体性芸術を代表するのがヴィクトリア・ペイジ(ヴィッキー)であり、総合芸術としての舞台芸術を代表するものがレールモントフと云う事になろうと思います。後者の二人は、純粋芸術にはあらざるものとして本稿では一括して扱う事にします。

 映画は、バレー劇『赤い靴』の舞台裏の制作過程の熾烈さを描きながら、同時にそれに恋愛模様を重ねて描きます。レールモントフは豊富な人生経験にもかかわらずヴィッキーを一目見た時から、そこに芸術と人生的な愛の統合された象徴を見て取ります。彼は最大限の注意を払いながら、まるで壊れ物でも扱うように彼女を自分の陣営に引き入れる手順を詳細に、手堅く張り巡らしますが、その慎重すぎる配慮が裏目に出てクラスターのスピーディーな求婚に出し抜かれてしまうのです。

 レールモントフは何時もサングラスの奥から話します。サングラスの奥にきらきらする小さな二つの眼を隠していると云う意味です。大事なことを言う場合はサングラスを外して二つの自分自身の間を往復します。一つは彼が王者のように君臨する世俗の時間、もう一つのサングラスの底にあるのは傷つき易い青年のようなナイーヴな自分自身です。レールモントフが豊富な人生経験にも関わらず恋敵のジュリアンから手痛い指摘を受けた時動揺するのはこのナイーブな青年のこころであるし、我を忘れて物事の計算すらできなくなるのです。豊富な人生経験、高い彼の社会的地位に関わらず、愛と向き合う時ひとは何時も初心なのです。

 二つの自分自身、二つの時間を生きる彼は、時差ゆえにジュリアンに、世俗の愛としては出遅れますが、仮面を外した時、彼がクラスターに、君はヴィッキーを幸せにできたか?と問う時、凡庸な愛は芸術に席を譲らなければならないのです。、また、レールモントフが、バレーは何処ででも踊れるではないかと云うジュリアンの主張を退けて、ヴィッキーに、究極のものを目指さなければ意味がないと云う時、ヴィクトリア・ペイジが生きることのできる時間が、世俗の時間ではなく、究極性の中にしかないことを語っています。世俗の時間の中に舞台芸術と云う手段を使って究極の時間を成立させること、それがレールモントフにとっての生きること、つまり彼が語る運命であると云う事の究極の意味なのです。

 一方、クラスターの愛が殆ど葛藤らしきものを持たないのは、純粋芸術と人生そして愛は綺麗に観念的に分かれているからです。かれは音楽家として生きることとヴィッキーに愛を語ることの間に何の矛盾もない。なぜならそれが彼の芸術であり、彼の人生なのですから。

 一方、ペイジにとってバレーを踊るとは、童話『赤い靴』のモチーフそのままに、愚かな少女を演じる中で、世俗的な愛にも青年の純粋な愛にも行きつけず、最終的には宗教的な愛からも疎外された、口答えできない愚かさの中で踊り続けて狂い死にするほかはないような生き方なのでした。ここで大事なのは、凡庸な愛など語るに値しないと主張するレールモントフの禁欲主義的な冷徹さだけではなく、男女の愛と云うものを自分たちが属する共同体の理想化する既成化されたあり方のままにそのまま信じて首肯するジュリアンの鈍感さもまた彼女を死に追い詰めている、と云う事ですね。そして既成化された凡庸さを背後で補償するものこそ、教会と云う組織なのでした。

 ヴィッキーが遂には死を選ぶのは、アンデルセンの赤い靴のモチーフが、赤い靴を履くことでしか自分自身であることのできなかった少女が、その生涯を生きる過程で、そのプロセスのいちいちが、社会から共同体から執拗な倫理的な指弾を受けなければならない定めにあった、と云うにあります。赤い靴を履くとは少女にとって、共同体の公的な署名と契約に馴染まない存在であり、共同体の外か境界域に住むほかはない、と云う定めにある事です。赤い靴の少女とは、境界域で、つまり温かい家庭の外で、乏しい灯とともに死んでいかなければならなかったマッチ売りの少女と同族のお話なのだ、と考えてよいでしょう。マッチ売りの少女が何色の服を着ていたか記憶にないのですが、赤であったような気がいたします。半ば死者を弔う儀式としては、薄倖の少女の死を見送るにはせめて赤い服を着せたいと云う潜在的な願いのようなものが、われわれの側にあるのでしょう。
 ヴィッキーが死を選ぶのは、アンデルセンの赤い靴の寓意を本当に演じることが出来るのは、生きることも死ぬこともできなかった、あの日あの時のヴィクトリア・ペイジであったからなのです。それが悲劇が身体性に統合されると云う事の意味なのです。