アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画『赤い靴』――二つの時間論――20世紀の乗り物たち アリアドネ・アーカイブスより

映画『赤い靴』――二つの時間論――20世紀の乗り物たち
2014-04-16 10:22:57
テーマ:映画と演劇




・ パウエルとプレスバーカー共同監督の映画『赤い靴』は世紀末から20世紀初頭の時代を多用に描いているが、その中でもこの時代は移動手段としての乗り物がその多様性において各段に拡大した時代でもあった。
 この映画に出てくる移動手段としての乗り物は、徒歩や劇場内での自由席に殺到するクロスカントリーもどきのパフォーマンスは別としても、馬車、自動車、そして蒸気機関車が描かれる。

 これらがどのような場面で描かれるかと云うと、19世紀までの主要な乗り物であった馬車は、ロマンティックな作曲家ジュリアン・クラスターが恋の至福を語る甘い語らいあい場面で、居眠りする呑気な騎手とともに登場する。ジュリアンは、今後長い長い時間が絶っても生涯で一番素晴らしい時間を過ごした日はこの時の事だろうなと感極まったように云う。ヴィッキーもまた歓びを抑えかねて、半ば居眠りしつつ櫓を漕いでいる騎手に声をかけるのだが、狸寝入りでなかったかどうかは、馬車等と云う旧時代めいたロマンティックで優雅なな乗り物ゆえ、遺物と化しつつある騎手の矜持ともに、その優しく重き配慮を証明する手立てはない。

 蒸気機関車は、レールモントフに才能を見出されたヴィッキーがバレー団とともに行くパリ行きの場面で描かれる。次に、先任のプリマドンナが結婚ゆえにバレー団を解雇される場面で、プラットフォーム上での別れの場面として描かれる。これには冷徹なレールモントフの見せしめの意味もある。続いて一流のプリマドンナを目指すのかジュリアンとの愛を選ぶのかとレールモントフに問われたヴィッキーが、ジュリアンの愛を選択する場面が列車のコンパートメントの中で、ついで一転してバレーを踊ることの誘惑に屈してレールモントフに口説かれるのが、やはり同じ列車のコンパートメント、最後はバルコニーから身を翻す場面がやはり列車による轢死と云う場面である。

 蒸気機関車は既に19世紀に公共的な乗り物として市民権を得ていたが、そういう意味では新参の自動車こそ20世紀に相応しい乗り物だとは言えるだろう。
 乗り物が出てくる場面は幾つかあるが、代表的なのはヴィッキーがジュリアンの愛を受け入れる場面と、それからレールモントフに呼び出されて山荘に向かう、至福の石段に繋がる有名な場面等だろう。
 前者においては、窓から見下ろすと何故かお迎えの車が二台来ているが、それは習慣として車で迎えに来ると云う生活スタイルが、そう特殊ではなくなりつつある時代を暗示しているのだろうか。実際に、蒸気機関車と云うメタファーが現れる時点では決まってヴィッキーの人生が大きく変転する場面に限られているのだが、自動車は時間性と移動手段としては日常性の延長と云う意味も含めて、多種多様、様々に扱われている。

 有名な山荘に続く石段の場面での序章ともなっている、モンテカルロの急斜面をのびやかに走るドライブウェイの華やかな場面は、これからヴィッキーの運命が一変することの寓意として、車はやや特殊な扱われ方をしている。このあと彼女は待望のプリマドンナの役をレールモントフから指名されるわけだが、この場面はそうした慶びの予感に震えている。また、これに先立つホテル・パリでの迎えの車の到着を告げる場面があるが、この場面は最初の頃の次の場面に、――ロンドンのロイヤルオペラハウスの通用口付近の場面に横付けされた黒塗りの車の場面に対応している。
 その場面とは、レールモントフを迎えに来ているらしい黒塗りの車の中に知り合いの貴族の青年の姿を見かけて気軽に声をとしてかけるのだが、それがレールモントフが乗り込む段階から、自動車はヴィッキーにとって手が届かない乗り物に変貌するのである。つまり未だ無名であるいち踊り子にとって手が届かない存在として自動車は描かれている。
 その文化的なり階級的格差を雄弁に説明する手段として映画では利用された自動車が、遂には幸せの使者として山荘に導くことになり、そしてジュリアンとの愛を受諾として受けとり日においては、恋人が自ら運転する乗り物として目の前に現れる、と云う仕組みになっている。

 こうしてみると、レールモントフが列車に結びつき、ロマンティックな恋人ジュリアンが馬車と乗用車に結びつくとは、厳密には言えないようだ。映画における移動手段としての乗り物のメタファーは、客体的にそのものとして描かれるのではなく、レールモントフなりジュリアンが乗り物をどのように観ていたか、と云う点に関わるようだ。
 ここから概略言えるのは次の事、――日常的な時間の断絶の象徴として列車が使われていると云う事だろう。停車場での出会いと別れと云う儀式によって、異なった時間と空間が支配する世界に列車は人々を運ぶのである。この映画の場合はそれがパリでありロンドンであり、そしてモンテカルロである。
 一方、自動車は二様の象徴的な役割をこの映画では果たしているようだ。一つは階級的ステイタスシンボルとして。自動車はヴィッキーが昇り詰める階段のステップごとに、まるで手助けする手段として登場するかのようだ。それは日常性の中断の相のもとに現れる絶対性として描かれる。日常的な時間の中断と云う意味では機関車も同様なのであるが、それらが外在的な不可抗力的な、黒々とした運命の象徴として描かれるのに反して、自動車は、山荘に至る至福の石段をヴィッキーが一歩一歩踏みしめて登ったように、身体性と精神の浄化、つまり芸術と云う名の王国への祭儀として描かれている。
 他方、自動車の持つ意味は多様で、乗り越えがたき階級社会のステイタスのシンボルとして、あるいはジュリアンとの結婚生活が暗示する、凡庸な生活の象徴としても描かれている。

 ジュリアンの愛の凡庸さは、自動車を日常性の延長としてのみ扱い、やがて馬車と云うロマンティックな19世紀的な遺物へと退化していく。そこにあるのは月夜に光る海原と、樹間の影を透かして見えるのんびりと馬車に揺られる、恋人たちの絵にかいたようなロココ的な風景である。ジュリアンが蒸気機関車と云うアイテムだけは使えなかったと云う事は重要だろう。かれは物語りの最後で、轢死したヴィッキーの遺体から赤い靴の紐をほどいてやるとき、彼の背後には憎らしいまでに黒々とした煙を吐く陰画としての蒸気機関車の存在を、目に見えぬ背後の目でしっかりと意識していたはずである。ジュリアンは赤い靴から、死神から人間としてのヴィッキーを救い出した、と最後は信じたはずである。
 他方、レールモントフは、人間の魂を抜き取られた空虚な舞台で、プリマドンナを失った物言わぬ沈黙の舞踏を、主役を欠いたステージを、スポットライトだけで表現すると云う喪の特異な仕方で、そして結局は舞台の女王として最も相応しい、芸術の王国が総力を挙げた壮麗な儀式を、レールモントフと云う美の司祭の手で敢行していた、と云う事は云えるだろう。

 どちらが勝ったのか、――こういう言い方が不適切であると云うならば、何れが葬送の儀式として相応しいと思うか考えるのかは、各自がこの映画をどのように観るのかの問題として跳ね返ってくるだろう。