アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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オペラ『トスカ』と映画『赤い靴』――「赤」と云う色彩のメタファー アリアドネ・アーカイブスより

オペラ『トスカ』と映画『赤い靴』――「赤」と云う色彩のメタファー
2014-04-16 11:51:19
テーマ:映画と演劇




・ 映画『赤い靴』を一見して気付くのはオペラ『トスカ』との類似性である。とりわけ象徴として用いられる赤い靴や赤いドレスの隠喩や、最後のバルコニーから身を翻す場面に象徴的に描かれている。

 オペラ『トスカ』は、19世紀初頭のナポレオン戦争時代の紆余曲折に満ちたヨーロッパ史の政争を舞台に描かれている。体制派と革命派、権謀術数と打算なき理想主義を語る青年たち、オペラは後者を好意的に描いているように見えながら、所詮は男たちの価値観の世界に生きる女の世界の固有さを描いている。

 女の世界の固有さを描くとはフェニミズムの事ではない。フェニミズムとは権利が性差によ偏りすぎた偏向を女性にも!と云う嘆願行為か脅迫的な観念であるにすぎない。
 これに反して『トスカ』が描いているのは、男たちの権利が自明のものとして慣習化され無意識のものとして不可視化された社会に於いては、一個の実存としての女の固有な生き方が、一種愚かしさの相の元に現れると云う現象の事を言う。
 従来よりトスカはかわいい女だが、馬鹿な女である、お頭の程度が知れない半馬鹿のように一部で言われているのは理由なしとしない。トスカが最初に登場するのは、大声で歌いながら恋人の在りかを訪ねて教会を訪問する姿である。オペラだから仕方がないとはいえ、恋人のカラヴァドッシでさへ聞きとがめて物陰に身を隠し、トスカにだけは秘密を言えないなと思うほどである。
 事実、秘密を持てないトスカのゆえにカラヴァドッシの政治的な盟友を匿うと云う行為は露見の憂き目をみることになるし、それがゆえに恋人の命を救うために操を差し出さなければならなくなったとき、トスカは自らの運命を呪い、信仰を失いかねると云うぎりぎりの境界線上に立たされる。その挙句の決断が悪漢スカルピアを刺し殺すと云う運命なのであるが、彼女の愚かさは、愛ゆえの殺人と云う事であれば人情的には許されもしようものを、恋人の救出劇と云う事前のシナリオですら深慮遠謀のスカルピアが生前に書いたメタシナリオの前に虚しくも愚弄され翻弄されると云う事態を前にして、愚かさの極みとしてサンタンジェロ城のバルコニーから真紅のドレスを翻して身を投じるのである。トスカは身を投じる前にスカルピアの亡霊に云う言葉、「神の御前で!」と云う事は、このオペラの解釈上も謎とされていることが多いが、一人の女性が一個の実存として死を選択的に選び取る行為において神はいないと云う事、宗教との決別を語っているのではないかとわたしは考えている。

 トスカは愚かな女ではなく、愚かな女であることを主体的な選択において選び取った女である、と云う事になるのだろうと思う。人生、生きておれば様々な局面に遭遇するが、その中でも愚かさの役割を演じなければならない場面はあるだろう。男社会に対する女性の権利と云う明示化され明文化可能な目的関数的な回廊に生きると云うのであればそれでよい、そうではなくて、自らが生きようとすることが社会の中で、共同体の中で、「愚かさ」として現象する社会があった、そして今もあると云う認識の問題なのである。その時、赤と云う色は、物言わぬ民としてどのような意味を持ったか、どのような潜在的な意味を担ったか、と云う事なのである。

 同様にアンデルセンの『赤い靴』は、赤い靴を履いたと云う少女が、赤い靴を履くことが究極的な実存の意味を担った少女の行為が、不適切な行為として、社会の非常識として明示的に反って来る社会を前提として描いたものである。少女はその罰として狂い死にするまで踊り続けなければならないと云う呪いを受けるのだが、呪った主体とは民話や説話のように、村はずれに生息する魔女や悪霊などではなく、世間や共同体、そして余りにも「正常」な社会であると云う事に深刻な意味がある。つまり社会なり共同体なりは固有の言語を有し、如何なる抵抗も抗議も、そして細やかな愚痴や呟きさへも、この共同体に固有の言語を介してしか語らせないし、また語られなければならないと云う言語構造の矛盾に残酷さがある。つまり抑圧の対象としての言語を介して語る限り、それは沈黙として自分自身に跳ね返ってこざるを得ない奇妙な、鏡のような世界なのである。少なくとも国民国家の成立以降、奇妙な世界とはわたしたちの住む世界の事なのである。

 映画『赤い靴』もまた、芸術的興行に携わる男たちの価値観が支配する世界を他方に描きながら、一人の女の固有な生涯を描いている。レールモントフとジュリアン・クラスターは、ヴィッキーをめぐって、愛をめぐって、芸術をめぐって、異なる価値観を競い合うけれども、目的志向的な男たちの行動様式をめぐる価値観と云う点では驚くほどよく似ている。
 ヴィッキーを追い詰めたのが仮に踊り続けること、つまり現代の魔術師であるレールモントフの芸術に憑かれた呪いであるだけなら踏みとどまることも可能であったろう。ヴィッキーの悲劇は、レールモントフに代表される世俗や芸術的興行の世界だけでなく、閉じられた最もプライヴェーとな世界と思われた二人の結婚生活の底にも類似の男たちの世界と云う構造を、類似の共同体の呪いを見出さなければならなかった点にある。
 レールモントフの権力やステイタスを裏側から補償する愛にも、ジュリアンの人間としての優しさとしての愛の何れにも行くことが出来ずに、阻まれた世俗の中間地点で孤独な死を選び取るほかはなかったと云う事、世俗界に阻まれながら同時に宗教界からも疎外されていると云う二重化された結果としての死と云う意味で、『トスカ』とも童話『赤い靴』とも通底したものが感じられるのである。
 
 愚かな女の役割の中で死んでいくと云う事は、言語が制度であり権力でもあると云う事を認識しながら死んでいくと云うことでもある。その時「赤い」と云う色彩のメタファーは、言葉にならない究極の意味を、その象徴的意義を、鮮やかに人間に代わって担うものとなるのである。