アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画 『黒水仙』――自然と云う衝撃! アリアドネ・アーカイブスより

映画 『黒水仙』――自然と云う衝撃!
2014-04-16 13:17:03
テーマ:映画と演劇




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・ パウエルとプレスバーガーの『黒水仙』は『赤い靴』と同時期の映画である。
 物語はヒマラヤの奥地にある、元々は王のハーレムだったさびれた宮殿を再生するために、そこを子供や女たちに教育や手芸を教える施設として、女子修道院としての運営を期待された修道女たちの物語である。

 周囲を雪を頂いたヒマラヤの高峰に囲まれた宮殿と云うのが崖っぷちにそそり立つ廃墟のような宮殿で、『薔薇の名前』を思い出してしまった。救援の映画のセット、そしてヒマラヤの朝夕に薔薇色に染まる景観が素晴らしい。
 
 物語は、それぞれに選ばれた五人が協力して当初は上手くいくかに見えるのだが、最終的には修道女たちの治療行為が赤ん坊の命を救えなかったことで村人の不信感に火をつけ閉鎖に追い込まれてしまう。
 これが致命傷とはなったのだが、それ以前にも、村にただ一人いる有能なイギリス人男性の存在をめぐって修道女たちの心は揺れる。女子修道院に強引に入り込んでくる村の権力者の王子が齎した、世俗的な華美な習慣や、村の年若い乞食女のあからさまな性的な魅力の誇示にも辟易とさせられてしまう修道女たちの存在。やがて魅力的なイギリス人男性をめぐって疑心暗鬼が跳梁し、妄想の余り嫉妬から主人公の修道尼院長を釣り鐘台から崖に突き落とそうとして誤って自分が足を滑らして転落死する騒動を経ることでようやく修道女たちは自分たちの限界を理解する。

 修道尼院長を演じた主演のデボラ・カーが例によって宗教と規則に固められたエリート修道尼を演じている。彼女と対立する心を病んだ若き修道尼を、ホラー映画を得意とするらしいキャスリーン・バイロンと云う女優さんが、年長の経験豊富な修道尼をフローラ・ロブソンと云う女優さんが演じているのだが、この映画を語る場合は男子禁制の修道女たちの物語と云う事からくるセクシュアリティに関わる関心だけではなく、自然が持つ意味についても考えてみなければならない。自然とは高地ヒマラヤ自然の問題だけではなく、文明と途絶したヒマラヤの裾野に暮らす悠久の民の変わらぬ暮らしぶりの事である。

 悠久の暮らしぶりに対応するものとして修道院の庭に築かれた石積みの段々畑が印象的である。ヒマラヤの自然に囲まれ、凡そ悪意と云う事を知らない現地住民のほほえみに囲まれながら畑仕事にし出すとき、ある年配の修道女はキリスト教の暮らし向きを忘れてしまう、と云うのである。
 修道女たちの様々な履歴と経歴の底にある抑圧されたものが溶解されて自然と一体となる、その気持ちこそ実はヨーロッパ民族が年を降るにつけて否定し、忘れ去って来たものである。修道女たちは知識人ではないからそのことを明瞭に言語的には理解しない。それを神に反した行為として、キリスト教への裏切り行為として理解し、より以上に至らない自分自身を責め続けて労働に邁進する以外に選択するべき道がないのである。信仰の証のように鍬を握り続けてたこだらけになった手のひらの指の関節、肉体的な疲労感と消耗が齎す幻想と妄想、こうして修道女たちは確実に自制心と云うものを失っていく。
 映画はこれ以上この方面での考察を展開しはしないが、修道女たちが自分たちの肌荒れや健康不全を不衛生な水のせいだと勘違いするところを、イロニーを籠めて描いている。実際は清浄過ぎる水が文明化された彼女たちの体質に違和反応を起こしているにすぎないのかも知れないのである。自然に対するヨーロッパ人の誤解を、水と云う比喩を用いることで上手く描いている。

 文明人にとって本当に恐ろしいのは、性的なメタファーなどではなく、自然が持つ脅威である。自然は堅く鎧を付けた修道女たちの心の鎧を溶解させる。修道女たちの間で長らく閉ざしてきた、かってあった世俗の思い出が甦る。それは震えるような郷愁を帯びた感情である。とりわけ修道尼院長が思い出すのは祖国アイルランドでの破局に終わった婚約時代の思い出である。誰もがそうなるだろうと思われた愛の祝福が、祖国に生きると云う乙女のささやかな願いを裏切って大志に燃えた青年は自由の国アメリカを目指す。置き去りにされた花嫁の物語は村の誰もが知っている公然の秘密であり、自己憐憫ゆえに彼女は祖国にとどまることが出来ない。傷つけられた彼女のプライドはそれ故にこそ、信仰の中に証を求めようとする。最年少の院長として抜擢を受けたのもかかる彼女の克己心、女の意地ゆえになのである。

 ある日彼女は泣きながらそのことを男の前で語る。その風景を目撃した、男に関心を抱く心の病んだ修道女は、二人の精神的な繋がりゆえに
許すことが出来ない。僧衣を平常服に取り換え鏡を覗いて唇に二文字に朱を引いたとき、別人に変貌する。映画ではオカルト的効果が素晴らしい。彼女は生きたまま復讐の鬼となる。

 こうして先に紹介した断崖絶壁に面した釣り鐘台のロープを中心とした活動となるのだが、結局、物語りの終わりで村に居残る男に彼女が言い残すのは、この狂い死にした同僚の墓の保守管理の事なのである。
 大粒の雨が蓮の葉に一つ二つと落ちて葉っぱを振るわせる。やがて視界も閉ざすほどの大雨となる。その驟雨の中をロバに乗った修道女の一行の後ろ姿が消えていく、印象的なラストシーンである。

 最後に気になったのは、別れを告げるためにヒロインが男に差し出す握手の身振りである。手の甲ではなく手のひらをおずおずと差し出す。男もまた暖かく包み込むようには握らないで、触れてはならぬもののように先端にそっと触れる、この別れの儀式が万感迫る思いであるとわたしの眼には映じた。
 このあと彼女はより強く信仰心を取り戻しただろうか、わたしはそうは思わない。現地に生きることの眼を養った彼女はより柔らかくなったと思う。

 終戦直後のイギリス映画、なかなかやりますね!