アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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宇野千代の『おはん』アリアドネ・アーカイブすより

宇野千代の『おはん』
2014-05-18 22:44:57
テーマ:映画と演劇




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原作と映画化の関係は様々に論じうる。例えば同じ市川崑の『細雪』の映画化にあたっては、原作と同様に素晴らしいものだと今でも思っている。春に逢うと云う意意味での春爛漫の一期一会の美を古都京を舞台に絢爛たる昭和初期の意匠を重ねた三松の装飾美とともに、色彩美で再現した市川の映画は、流石と思わせるものがあった。

 映画の造り方としては『おはん』もまた同工異曲であると云ってよいだろう。生活力のない旦那が、妻と愛人の間をふらふらすると云うだけの話であるが、違うのは男に生活費を稼ごうとする意思がないのか能力がないのか、そうした根底的な無力感のようなものがあって、通常は予想されるこの種の三角関係に於いて、妻が愛人に遠慮する、と云うところが違っている。これは単なる違いと云うよりも、徹底的に妻が謙る(へりくだる)と云う意味においてそれほど分かりやすい話ではない。

 舞台は宇野が生まれた岩国と云う事になっているが錦帯橋が出てくるわけではなく、むしろ芸者の心意気や置屋と呼ばれる特殊な花柳界的な仕組みの表現に於いて、その都会的な洗練御度合いに於いて、地方都市の実態には合わないように思う。むしろ東京でもよかったのではないかと思う。それが一見、古風に見えて宇野のこの作品の近代性がある。

 終戦後、この作品が上梓され、かの小林秀雄が絶賛したと云う事だが、戦争を潜り抜けることで、古風などころか宇野のモダニズムはより一層の洗練を遂げたと云う事なのであろうか。それがモダニスト小林の評価の一因を成したようにも思える。
 この作品は、はっきり言って無国籍的である。

 この映画のどこが新しいか。それはおはんの徹底的に謙る姿勢である。自分の前に現れた世界がどのような世界であるかを問うことなく、ひたすら、自分の至らなさと云う自己の実存の問題に解消してしまう姿勢である。自己解体へと向かう日本の現実がどのようであろうと所詮は自意識の問題だと居直りを見せた『様々な意匠』以降の小林とそっくりなのである。

 妻は、夫に愛人が出来たと知ると、潔く、身を引く。しかし愛していないわけではなく、ふと再会した元夫に請われるままに、ずるずると深みに誘われるかのように関係をつづけ、やがて劫罰のような結末が来る。
 ここでも妻は怯むことなく、元夫を強制的に引き立てる愛人の前に至らなさを詫びる。愛人との関係を続けながら、夢のような子供を入れた親子三人の水入らずの生活への夢が無残にも破綻したとき、他を責めるのではなく、自らへの原罪のようなものとして受け止めるのである。

 元夫は述懐する、――せめて夫としての不甲斐無さを責めてくれたならば自分も救われたであろう、と。行方不明となった元妻が寄越した手紙を読んで元夫も愛人も暗然とし、そして打ちのめされる。そこには一言も恨みや辛みの言葉が書かれていなかったからである。おはんは無教養な女の設定にしては素晴らしい文体を持っていたと云うべきだろうか。言葉の威力はそれが明文化されることで、永遠の責苦を残された人間たちに与えるのである。

 この時代、敏感な宇野の感性を捕えたものは、戦争と云う事象的世界を境に死んだりあるいは行方不明となったものと生き残ったものの分岐線を隔てた生き方であったろう。広島・長崎の死者が恨み辛みを述べず、自らの至らなさを悔いることで平和の礎となりたいと願ったことと同じ事なのである、同じことがこの小説で同時並行的現象として描かれているのである。

 三島由紀夫などには申し訳ないが、大東亜戦争は日本精神の名に於いてではなく、日本の西洋的価値観の受容原理の程度の敗北であった、と思っている。現実を見ずに、ファナティックに幻想のみを言い立てる論理もまた、神風の論理などではなく、西洋的な原理主義な論理なのである。
 であるから、敗北の形も宇野の小説に現れたように、西洋的な論理の受容と受苦の形態として描かれざるを得なかったのである。
 妻と愛人の間で逡巡し、永遠の不決断を自己の実存として捉え返すことでしか自分たりえない色男と、そのような不甲斐無さに於いても親の情は当然あり、子供会いたさに無理にでも絵にかいたようなパラダイスじみた一夫一妻制の聖家族像のあだし夢を見る。しかし夢を見ること自体すら許されない苛烈な社会の価値観の中で、当然のごとく、あの偶像崇拝を罰したモーゼの様な不寛容な旧約的な神の罰が降る、ソドムとゴモラに降り注いだ硫黄の雨のように――わたしにはそう読めた。

 映画化に於いては、世界を左右の両翼から引っ張り合う絶妙の緊張を与えた吉永小百合大原麗子に敬意を表したい。吉永の、オーソドックスで優等的責任感、偽善的な反面性がこの映画ではおはんの驚くべき人間存在の複雑さを表現している。彼女の人間としての生真面目さが実に質感のある演技を可能にしていると云いたいのだ。巧まざる名演技と言おうか。
 大原もまた、色町を腕一本で生きる女の心意気を上手く表現していた。この女がおはんの手紙に衝撃を受けるのは、それなりの指一本指されない生き方をしてきたからである。大原の生前から揺曳していた無常感が儚くて憎めない健気に生きる浮世感を表現している。大原が演じきったのは、キリスト教精神に遭遇する以前の古い日本の女の面影なのである。吉永、大原が演じた演劇的緊張は、文明の東西、文化の新旧をめぐる形而上学的対峙の構図なのである。
 意地気なしの男を演じた石坂浩二もまた、普通であれば根本的に反省して発奮するかこのまま生存の継続は願わないところであろう。しかし生活の糧を得ることを自らに禁じた僧侶の様な生き方をする?彼には、世俗に寄生して生きていくほかはないのである。『おはん』の世界は徹底的に宗教画的な世界なのである。苦界の中に身を於いてそこにとどまろうとする意思、それもまた実存的な決断の一種、宗教的な回心の在り方とは云えるのである。



(追記)
 愛が現実を追い抜いてしまう時刻、それをわたしは密かにリルケ的時間と名付けるのだが、おはんがそうした世俗の愛の時間を生きたのかどうか、それとも肉欲の愛の範型を超えた高みに達することにおいて、超越的達観の世界から宗教的な復讐をしたに過ぎないのか、難しい問題である。
 愛の絶対性をここまで純粋に主張されてしまえば、世俗の愛などは太刀打ちのしようもない。手紙を読ませられて残された二人は徹底的に自分たちの愛の在り方を否定され打ちのめされる。おはんが生きた愛の時間は世俗的聖家族像の象徴であった一粒種の悟の死と引き換えに、最愛の子の死を犠牲にして得られると云う意味でギリシア悲劇『メディア』をも思わせる。おはんの凄いところはそれを愛の絶対性と云わずに、自らの身体の中からあくがれいずるように出てくる愛の自体性に慄く姿を演じて『源氏物語』の六条御息所をも彷彿とさせる。にまた『おはん』の終わり方は、「目を覚まさなければいけないわ・・・」と云って蝋燭を持って階段を上ってくるジッドの『狭き門』の印象的な最後の場面をも思わせる、近代日本の西洋的精神の受容と対決の水準を示す作品であると思う。