アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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武田百合子の『富士日記』の半ばを読んで アリアドネ・アーカイブスより

武田百合子の『富士日記』の半ばを読んで
2014-06-01 19:19:12
テーマ:文学と思想


 武田百合子の上・中・下巻、三冊の中ほどまで読み進んだので感想を書いておく。この書は名著として色々な人がいろいろに論じているらしいので、わたしとしてはなるべく違ったことを書いておく。
 しかも描かれた昭和39年以降の数年間は、上京して学生暮らしをしたわたしの数年間とも重なっているので、同時代人の証言としても書いておきたい。


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  当時話題であった本も数十年たてば分かりにくくなったことも多い。今日の読者がこの本をすんなりと読めないところは何だろうかと考えてみて、次のような点に思い当った。

 一つは富士裾野での山小屋暮らし、順調な時は一週間の半々を東京の赤坂と富士山麓で暮らすと云う生活である。謎は、読むにしたがって深まっていく。百合子の山小屋生活を維持しようと云う意志は夫の泰淳氏が生活上では何にもできない人であるので、勢い、百合子氏の情熱だけに負荷がかかる。それから、ごく当然のように書いているけれども、1960年代の中ごろで、女性が車を運転すると云うのは最先端の事象であったことも書いておかなければならないだろう。本人は十分意識していたはずなのに書いてないから百合子氏と時代の関係が見えにくくなるのである。山小屋暮らしもまた、泰淳氏に高地の健康な空気を吸わせたい、都会暮らしの彼に地域でのコミュニケーションとは如何なるものかを体験させたい、と云う事はあったにしても、作家と内弟子内弟子の聖域を造りたいと云う意図が分かりにくくなっているのである。
 つまりこれは、当節流行りの、等身大、とは正反対の物語である。

 聖域の維持しがたさの象徴として出てくるのが山小屋の建物管理上の意地のし難さと、度々起こる車の故障とトラブルの数々である。事故を起こさない方が不思議と思われるほどの、死界とすれすれの刹那的な時間の持ち主が武田百合子氏である。さらに聖域の維持し難さの二つの象徴の背後にあるのは、死と云う、生物にとって抗いがたい最終の出来事である。その隠された死との対峙のテーマの大きな伏線のひとつが、例えば愛犬ポコの死である。

 愛犬ポコの死を描いた場面が特異であるのは、上巻でさりげなく犬が癌であることを書きながらそのあとは延々と忘れたように書洩らし、中巻の真ん中あたりであっけなく死んでしまった場面が近過去形として語られる、と云う次第である。前兆と事件事象との間を繋ぐスパンの長さ、予兆と出来事の間に横たわる三百ページ余と云う間隔の長さは、これは物語ると云う姿勢ではない。日常生活がある意味では不意の出来事の連続であるように、この日記文学が目指しているのは語り物ではなく、物語世界の破壊、日常と云う名の唐突感、思いがけなさなのである。
 ポコの死を描いた場面に青空が出てくるが、シュールな感覚というか、一瞬ダリの絵画を思わせた。

 百合子氏の日記を読む場合は、別荘生活であるとか女性が車の運転をするとかと云う事象を当たり前の事として読んではならないのである。今日の感覚で読んではならないと云う事である。無理に無理を重ねた異常なことが行われている、その負の意志こそ百合子氏の聖なる空間を維持しようとするシジフォス的な意志であることを確認することから始められなければならない。

 発表を前提としない百合子氏の日記の最初と終わりに、何故、春夏秋冬、朝昼晩のメニュの献立と、それを維持するために経済的家計簿が執拗に挿入されるかの意味についても考えてみなければならない。時とは死に向かって移ろい逝くもの、日々の細やかな痕跡をまるで賽の河原における塔婆のように積み重ねる意思を見ないならば百合子氏の切なさ、哀しさは伝わってはこない。

 わたしは百合子氏は一度死んだことのある人間ではないかと思う。彼女の生きる必死さは、通常の夫婦関係などと云うものではない。それが露呈するのが百合子氏が運転する車のホイールカバーがトンネルの中で脱落し、無謀にも泰淳氏がそれを探しに大型トラックが激しく行き交うトンネルの中に探しに行く場面である。
 この場面の恐ろしさは泰淳氏が抱えている虚無の深さでもある。泰淳氏はちょっと朝の起き方、寝覚めの悪い百合子氏が不機嫌で冷たくされたのを理由に、子供のように死んでやると云っているのである。だいの大人が、しかも当時有数の高名な作家がこのような幼稚ないじけた側面を見せる、無防備と云うか甘えと云うか、しかしこれだけではない、残酷なのは泰淳氏が百合子氏の一番大事にしている当のものを良く知っていて、こうした見せしめにも似た行為に及んでいる、と云う事なのである。一度死んだ娘は――百合子氏のことをはわたしには何時までも娘であったような気がしているのであえてこう書く――無事に帰って来た泰淳氏の両膝にしがみついて泣きくじゃり、汚い話だがげろを履く。読んでて汚く感じないのは、綺麗とか汚いとか生理的な事象を超えているからである。泰淳氏が試そうとしたのは、それほど生理的な肉体的な痙攣でしか現せない百合子氏にとっては根源的なものだったのである。

 今日読むわたしは、当時の読者とは当然関心のありかたも変わってきている。昭和39年から――今読んでいるところは昭和43年の頃までであるが――の数年間と云うものは、地方から上京したてのわたしが生活でもあった。当時の食べ物のメニューは当時わたしが食べていたものとは随分違うのだが、家計簿の細々とした金額には頷けるものがある。日常雑費の細々とした品目を読み上げながら、わたしもまた当時の自分自身を思い出すと云う、思いがけない余得がある。
 当時の読者とわたしが違うのは、何よりも日々の献立、その和洋折衷とレトルト性の混在した生活様式である。それが当時、先見的なスタイルであったことは十分意識されて良いだろう。一週間を半分に分けて交互に東京と富士山で過ごすと云うハードな生活様式が要求したものとして止むを得ない面はあれ、これは後年、村上春樹なのどの風俗小説に出てくる生活スタイルを先取りするものとして、すでに階級の一部には実現していたことだろう。違うのは春樹氏がそのことにファッション論として十分意識的であったのに対して、百合子氏が無関心であることだろう。生と死の間を一度往復した人間にはどうでもよいことなのである。

 レシピと家計簿的な記述と並んで出てくるのが、交通事故や災害による死の記述である。詳細な記述はなくて、ここでも家計簿的に詳細は省略されたまま記述され、通奏低音の擬似事象として、象徴的点描として描かれる。
 同じような記述の仕方として、野山の動植物からカエル、蛾などの昆虫類に至る記述が頻出している。これは一度生死を往復した経験のあるものとしての百合子氏の眼に、人間以外の生き物の生きる姿の哀しさとして映じたからではないのだろうか。それに比べるとき、近所付き合いとして出てくる現地の人間たちの姿が生の旺盛さ、として描かれていることは偶然ではない。つまり小動物と高度成長下の村落共同体における人間の動態が対比的、ガルガンチュア的な誇張で描かれていると云う理解が可能である。

 なにゆえ富士日記とは名づけられたるか。冨士とは不二、二つとはないこと、それは一度生死を往復した経験のある四十の娘?がようやく手に入れ、奇跡のようにして到達し確保した聖域、サンクチュアリに名付けられたこのものの名前であったと云う事である。
 確かに本を閉じれば、片方にイエス様のような温厚で思いやり深い泰淳氏の肖像があり、それをまるで壊れ物でもあるかのように日々の時間を愛おしむ使徒、百合子氏の営々の努力があると云う、ほとんど宗教画のような構図が炙り絵の様に仄見えてくるのである。
 当時わたしもまた同じ時代と風土を生きながら、都会生活には同郷のものたちの言い分とは逆に親和的なものを感じていた。都会人あるいは都市の庶民と云うものは、ある意味で控えめで他者の内面には手を付けずに隔てを通してみると云う姿勢を幼年の頃から身に着けている。それは冷たく感じることもあろうけれども、慣れてくるとそれが彼ら都会人の愛情の現し方のひとつであることも理解できるようになる。その証拠のひとつが、時代が大きく変化しようとした転換期において、不器用さを吹聴していたものは案外世渡りも巧みに生きていったのに対して、長い時を隔てて思い返せば静かな支持で支えてくれたのは幾人かの都市の庶民たちの系統に属するものの思い出であった。
 富士日記の簡素な文体は、公開を前提としない私的なメモワールと云う側面があるにしても、その底辺に流れるのは都市文学の節度と云うものではないかと思う。わたしが百合子氏の富士日記を読みながら感じる懐かしさは、当時の風俗、風物もさりながら、当時のわたしの青春の時間なのであり、いまは過去のものとなった都市庶民の失われた感性なのである。

 まあ、いろいろと例によってごたごたと書いてきたが、全体を通読すればまた印象も変わると思う。