アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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武田百合子の『富士日記』・3 アリアドネ・アーカイブスより

武田百合子の『富士日記』・3
2014-06-03 20:08:51
テーマ:文学と思想




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まあトンネル事件と呼んで差支えないと思いますが、夫の気まぐれかかんしゃく玉のような突発的な行為が見せつけたものは、一面では泰淳氏の子供っぽい甘えの表現でありながら、一人の主婦であることを自覚的に選び取った百合子にとっては実存の根幹にかかわる問題であることを露呈したわけです。夫のズボンの裾を掴んで泣きくじゃる妻の姿は自然な妻の姿ではありません。富士山麓武田山荘と云うこの世の地上とは異なった場所に、往復六時間余を要する毎週ごとの労苦と、夫には内緒に進められたと云う運転免許取得と山荘購入と云う人為的な努力の果てに、世間の妻とは違った百合子がこの世に誕生させようとしたサンクチュアリ、聖域のごときものだったのである。しかも聖域は、百合子の証言を引用するならば、おびただしい知己の死亡記事や交通事故の現場証言に満ちている。つまり終わりあるものであるとの覚悟が最初からあったのではないかと思わせるものがある。しかしそれにしては13年間と云う歳月は長かった。13年間と云う時間を押し通した彼女の意志の並々らなぬ強さと決意をこそ思うべきだろう。

 こうした死に縁どられた富士山麓サンクチュアリと云う観点から見ると、それ以外にも多様な武田泰淳の生涯の現場があったにもかかわらず、富士山麓の日々にのみ限定した富士日記が1500ページもの膨大さに及んだことの意味がようやく理解できる。死に縁どられた武田家の額縁絵を俯瞰するとき、とりわけ日々の細やかなメニュー表や家計簿的に丹念に品目と値段を書き付ける客観主義的な記述が生きてくるのである。日々の付き合いや、印象的な隣人とのユーモラスなやり取りが生きてくるのである。何百回となく往復した道順のほぼ決まった時に決まった場所で決まったメニューを選んで食べた記録までが生き生きとよみがえる、不思議に魅力に満ちた書物であることが分かるのである。
 これは天性の文章力とが芸術的な感性と云う事だけではなくて、何よりもまた武田百合子が、再び顧みるものとして選んだ主婦の座とその聖家族像の維持と保全に捧げた努力、その厳かなる 人間的な営為にこそ言及すべきであったろう。

 またこの書を、書かれつつある進行形の書であったとして考えると、泰淳氏の死からほどなくしてさる編集者からの申し出であったと云う事が書かれている。むかしの編集者はえらかったとも思うし、この今はない幻と化しつつある山荘生活のメモを書き写す作業は、さながら平安朝の写経と云う所作にも似ていただろう。百合子はなおこのあと、十二年ほど生きて、まるで平家物語に登場する女御のように生涯を閉じるのである。その生涯は美しきものであったと云う事が出来る。それか今日においてもなお、昭和期を画する日記文学が読み継がれている理由のひとつなのである。昭和期を画すると書いたのは、この日記文学の背後に流れていた時代背景、日本戦後史の最大の曲がり角の時期に該当する激変の時期と同時並行的であったと云う意味である。下巻になると、さりげなく娘の花子がデモに行く姿が点景として言及されている。また泰淳氏の左翼的信条の残影は富士演習場の中止を求めるおばちゃんたちのハンスト行動に対する共感にも現れている。

 わたしたちは今日、『富士日記』を読むことによって、随分遠くまで来たのだと云う感慨を禁じ得ない。富士日記に登場する大半の人々が鬼籍に入っていることも時の流れを実感させる。ちっとも家庭の主婦らしくなくて、そして真実その聖家族像は人工性に貫かれていたのが、その人為性ゆえにこそ武田百合子が守ろうとしたもの、日々の日常の、維持管理の中に時に抗いつつ生きた証を尊いと思うのである。一人の人間が生きてありかって生きてあったと云う観点がないならばこの書を正しく読んだことにはならない。簡潔な表現とか天衣無縫な文体とかはその次の問題であると思う。

 最後にこの書の余徳は、日記中に描かれた泰然自若として描かれた慈悲深い武田氏の肖像である。もちろん当時すでに病魔に侵されていたがゆえに時にあのトンネル事件のような大人げない対応を私生活では見せることもあったが、それはあくまで身内としての百合子にだけ見せた肖像である。人間だから当然矛盾した面があって、外向きの武田氏はあくまで大人であり先生であった。富士日記は泰淳が先生であることを自認することを前提することにおいて描かれている。かれが普通の俗世の人間どもとは異なった人種であることを前提に地元人も山荘に集まってくる。それもまた、ある面では東京に置いてきた文士の生活と云う属性とは次元の異なった、冨士の山麓に百合子が夢見た聖域であった。彼女はその小宇宙に君臨することはなかったけれども、女主人としての役割をしっかりと果した。その記録が富士日記であり、それが長い時間が過ぎ去ったとき、額縁の中で輝きだすのである。
 少なくとも富士日記と呼ばれた額縁の中に置かれた泰淳氏は聖人のようである。それは実証主義的な資料によって幾重にも反証し得ようとも、少なくとも男たちの罵倒する言葉に言い返そうとする百合子を窘める表情には共通するものがある。それは何度読んでもある種の憂愁としか言いようのない共通の表情がある。女だから慎むべきだとか、下品な人間の品性には対等に付き合うゆわれはないと云う賢しらの理由なのではなく、どうも本来的に泰淳氏が身に着けていたらしい平等に関する見識らしいのである。かれは高名な作家として常に先生であるのだが、こと平等意識を前提とした人としての弱み、妬み絡みになるとまるで芥川の御釈迦様のような憂愁、憂いに満ちた表情を見せる。これは彼が仏家の出だからとか建前好きの人間であったから、と云う事にはならないだろう。泰淳氏の仁徳に触れることで、わたしのように武田泰淳の本を読んでみたいと思わせるような、そんな書き方がしてある本なのである。