アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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時の花を挿頭に挿すべし――ある世阿弥論 アリアドネ・アーカイブスより

時の花を挿頭に挿すべし――ある世阿弥
2014-06-09 12:09:07
テーマ:文学と思想




 わたしと能の付き合いは古く、昭和四十九年の春だったと思うが、熊本の市民会館で喜多流の『海女』をみたのが初めてであった。当日シテを務められた狩野様というお方は、当時父が素謡いに通っていた御家元の当主であられた。演目が果ててのち、ホールで父に連れられて挨拶に行ったのを憶えている。わたしは前シテと後シテの目が覚めるような転換について二言三言興奮して話したが上手く伝えられたかは自信がない。この後、能楽を時には見るようになり『隅田川』や『井筒』には感銘を受けた。能楽の重々しい所作もさりながら、人間業とは思えないような独特の発声法に驚いた。昔は拡声器とてないころなので観客席の隅々まで通るにはこのような発声法が必要であったことを後に理解したが、それだけのものでは済まなかった。その発声法はまるで、舞台から響いてくるのではなく、自分の体内から、心臓のあたりに口があってそこから響いてくるように思われたものである。まさに主客を超えたお能の自体的語りと云うものを経験した事始めであった。

 お能の所作については秦恒平などの著作を通じて、その本質は花と風であることを教えていただいた。特に注目するのはお能が始まる前の数分間、舞台裏で遠くやがて間近に聞こえてくる笛や太鼓の響きである。それはどうかするとリハーサル前のオーケストラの調整のようでもある。お能に無知なわたしはそれも知らなくて、橋掛かりの隅の幕が上がるまでの緊張感の中に予感として聴いた。
 そうしてやおらシテが登場する。するりと音のなく滑り出して、どうかすると、これはシテの任意かとも思われるのだが、所作が停止し、遥か遠くを望むように観客を眺めているかにも見える。もちろん、シテは主役なのであるからこれから始まろうとする能のドラマの全貌を演者として思いやっていると思うのだが、それが一観客としては自分たちを見やっている風情に見えてしまうのである。
 橋掛かりが持つ役割について、それが風であることを教えてくれたのも先述の秦氏であった。お能の本舞台が花であるとすれば、橋掛かりは風なのであろうか。演目の終わりに、シテ、ワキ、ツレにと、順次に幕間に消え、謡方も囃子方も一人づつ舞台を去っていく、その立ち振る舞いの潔さ、淀みのなさが、まるで名人の茶席の一期一会の哀惜を遥かに回想するかのごとくなのである。
 茶会果てて後の、自服という所作にも秦は触れている。主人は茶会が果ててのち、客をもてなした同じ手で今度は自分のために一椀の茶をたてる、彼の脳裏の去来するのは今日の茶会の次第、居合わせ居集った面々への思いであり、その今後の春秋である。爽やかに茶杓を曳きながら裏木戸まで見送った後姿を想い、茶筅を立て乍らいまどのあたりを歩いているのだろうかと思う、つまり茶会というものには終わりというものがないのである。
 そのようにお能にも終わりというものがないのである。25歳の時のわたしが師匠のもとへ挨拶に訪れたように、能を通じて培われたその日その時の知人たちが相集って時候挨拶と近況報告を華やかに交し合う、この時も実はお能としては継続していて、帰りの市電を電停に待つときも、電停から我が家へと家路を急ぐ時も終わってはいない。

 数年前のことであった。博多の古びた能楽堂で観能したおりのことである。若葉の美しいころのことで、住吉の深い緑を観賞しながら境内の踏み石を歩いた。雀や野鳥の声が喧しいことであった。それに遠くから田舎の祭囃子のように鼓や笛の音が漏れ聞こえてくる。囃子と喧しい野鳥の声、それは場内についても変わることなく、演目が始まって後も変わることなく続いた。換気施設を備えていない廃屋寸前の木造の能楽堂であるために窓を開け放して演能するほかはなかったのである。
 お能の目出度い当日の演目と、小鳥のさえずりや遠く聞こえてくる博多の繁華な街の喧騒の音も加わって、遠い室町の世にはこのようにして演能されたかとおもわせるものがそこには確かにあった。

 白洲正子からは、今日イメージするしかつめらしい能、閉鎖系の能というものとは異なった開放性について学んだ。彼女には韋駄天お正と呼ばれた時代があったように性を超越したところがある。お能には女を男が演じ、演じられた女が男の衣装を着て舞うと云うややこしい事情があるが、性差の目くるめくような循環の果てに性差の相対性を超えるらしいのである。正子は性差を超越していたと云うよりも、生涯未発達で稚児の段階に終わった人、とどまり続けた人ではないかと思う。わたしはこの人が人並みに子を産み育てたと云う事が信じがたいことのように思われる。それは一つには知人、交友関係もあるだろうけれども、生家の没落と戦争によって何かがこの9人の中で死んでしまったと云う事にもよるだろう。それは川場康成ふうに言えば、美しい日本のわたし、であったかもしれない。死者の眼を通してみたこの世、死者の眼差しが、何かこの世を見返し顧みているような、そんな感じがするのである。
 彼女はかかる能楽に於ける無限連鎖にも似た循環と遍歴の過程を、世阿弥花伝書を元に、初心と云う言葉で説明している。初心とはまだ芸もおぼつかなくて初舞台を踏む時期の事、二番目に白洲が云わんとする初心とはその時々に出会う初心、初心なくば如何にして「現在」を生き得ようか。そして肉体と知力の衰えが全ての能楽興行に伴う花を奪い尽くし、老残の寂寥と孤独感の中にも花はあるかと問う、その究極の姿勢、それを三番目の初心とは云う。
 つまり正子は、世阿弥が父観阿弥の死と自らの初々しい初舞台の頃の思い出から筆を起こしたように、老年の初心が稚児の初心に円環し循環し回帰する様と映じたと云うのである、花伝書とは幼き日の初心に、幼き頃の幸せに帰る、自己回帰の旅でもあったと彼女は言うのである。幼き日と老年期が卓越しているのは世阿弥と正子の生涯を考えるとやむを得ないことだろう。
 花伝書は正子にとって幸せを求める旅であったかのように水原紫苑は優しみを湛えて解説文に書いている。

 世阿弥に「時の花を挿頭(かざし)に挿すべし」という言葉を能に関する最も美しいものとわたしは信じている。ここに「時の花」とは白洲の『世阿弥』においても馬場あき子の『風姿花伝』を読んでも「時節の花」を挿頭にかざして舞うと云うほどの意味で、特別の意味は求めてはいない。しかし「初心」ということに引き付けて考えれば先述したように、初心とは正子にとって性差と歳月の円環構造からくる稚児的の理想にある初心と、巌に生える花と云う意味での老年の初心に於いて卓越していたかのようにみえる。
 時の花を挿頭に挿すとは、それと同時にそれに重ねて、時の栄光を「まねる」という芸事の大和猿楽の基本形において、その日々時々に置いて生じる日常的な時間を突き抜ける超越性を日々折々の中に織り込んで経験する、光の見者、光の巡礼者としての世阿弥と正子の生き方であったようにも思える。つまりこうべをあげて――

 光を挿頭に挿すべし!と。