アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ユダヤ教との対話――西南学院百周年学術討議を傍聴して アリアドネ・アーカイブスより

ユダヤ教との対話――西南学院百周年学術討議を傍聴して
2014-06-13 12:20:44
テーマ:宗教と哲学

 



  西南学院創立100周年記念学術シンポジウムのテーマは「一神教は危険か――宗教間対話の可能性」という壮大なものであるが、ユダヤ教を代表してジョナサン・マゴネット、キリスト教を代表して西南学院顧問・寺園喜基、イスラム教を代表して同志社大学教授・四戸順弥、司会は同大学神学部教授須藤伊知郎である。1時半から休憩を挟んで5時までの三時間半、この時間では討議を深めることは当然無理で、それぞれの宗派の特徴の一端を紹介する以上の事は無理だろう。あるいは事前にもう少し調整しておいて要点を浮き彫りにすると云う演出法も可能だが、それではシンポジウムに固有の臨場性や偶発性の魅力をそぐことになりかねない。百周年記念事業と云う事もあって主催者側に気負いがあったにしてもやむを得ないことであろう。それで今回は、冒頭の講演者ジョナサン・マゴネット氏のユダヤ教のみについて解説することにする。理由はわが国ではユダヤ教について論じられることが少ないからという単純な理由による。

 さて、ユダヤ教が代表的な一神教であることは明白で、その「シェマー」――命令形の形で語られる「聞け、イスラエルよ・・・・」の形で語られる神の唯一性とは何であろうか。神の唯一性についてはマイモニデスの『信仰の十三の原理』の中からそれが、比較しうるような対の片側でもなく、種が一つであると云うようでもなく、複合して一つを形成しているが多くの部分に分けられるような全体のようでもなく、単に数として無限分割を許すようなあり方でもない。どのような類例もない唯一性を持った人である、と説明している。つまりそれが何であるのかを説明するのに、否定形の連なりでしか表現できないものであるらしいのである。
 またその唯一性は、世界を改変する意思でもあるので、当然自然の外に立つ存在でもある。この自然の「外に立つ」と云う理解がユダヤ教の場合は重要で、何故かと云えば、ユダヤ教が嫌う偶像崇拝とは自然に由来することどもの全体であるからだ。わたしたちはユダヤ教と云うものが単に一神教であるとかないとかの論議の仕方で理解するよりも、その根本には偶像崇拝への脅威、物神化や物象化の問題がある事を通じて、その根底には自然への敵意が存在することを押さえておかなければならない。
 自然と宗教の関係については、いつの日にか問い糺したいと思っている。

 次にユダヤ教の神の唯一性とは、必ずしもユダヤ教徒の独善性をのみ意味しない。その理由は『旧約聖書』がイスラエルの卓越を語るアブラハムの物語で始まるのではなく、天地創造の物語から始まる理由である。ユダヤ教に於いて神の唯一性を語ることは、「すべての人間が、人種、肌の色、民族、国家、あるいは宗教の違いにもかかわらず、一つであり等しいことを含んでいます。」(マゴネットの当日のレジュメより)
「すべての人間が«神の像»に(似せられて)造られたということは、一つ一つの命が聖なるものだということを意味しています(同署)

 次に、ユダヤ教の唯一性としての神とは「人格」を持つものである。
 神が人格を持つとは、神が人間の正しい行いに対して深い関係があるとこうことである。例えばソドムとゴモラが天の劫火で焼き滅ぼされようとしたとき、アブラハムは神に問うている、――神は罪のないものも罪あるものと同様に滅ぼされることを望まれるのですか?と。その行為は、天地を主宰する神の行為として正しいものであるのですか?と。
 ユダヤ教における神が唯一性を持ちかつ人格であると云う意味は、神の行為への可疑性、人間の側の意志が神の行為に影響を与え得ると云う「契約」の言う事象の固有さを表している。
 わたしたちは旧約を読みながらしばしば感じる疑問のひとつに、神の苛烈さとその不平等な行為を認めますが、実を言うと旧約の読み解きがたさは一方でユダヤ教が持つ神が唯一性をもち乍ら、他方で人間の側からの疑義や疑問を入れる余地を残した、ユニークな神理解の仕方にある。

 ユダヤ教ではユダヤ教徒の卓越性を絶対性としては表現しない。卓越はしているけれどもユニークで固有な存在という意味に近い。「あなたがただけを地上の全ての氏族の中から私は知った。そこで私はあなたがたの全ての過ちを問いただす」(アモス3;2)
 ここから何故、神はユダヤの民にのみ苛酷であり苛烈な対応の仕方を成されるような書き方がされているのかの理由となる。ユダヤ教徒は、人が他者の良き振る舞いを真似るように、神と人間との関係における振る舞いのモデルとなることを望んでいる。ここからは、当然、他宗教教徒を指導し薫陶し、改宗に導くと云う発想は出てこない。もし従わない場合は、悪しき肉体からよき魂を分離させると云う意味で火刑台に据えて炎の供犠に奉げると云う儀式も出てこない。

 ユダヤ教における一神教とは、偶像崇拝に対する防御手段として理解した方が合理的である。なぜならヘブライ語で云われる「カディッシュ」とは本来「«別の»«異なる»«他の»という他者性の表現になっているからである。ユダヤ教は他者性を強調することで、真理とは「現れたる現象としては」相対的であり、部分的な真理に過ぎず、逆説的な表現ではあるが、あらゆる宗教的な信念を絶対化しようとする試みに対して、変わることのない防御手段として今日まで維持されてきたのである。
 一神教が危険なのではなく、偶像崇拝こそが問題なのである。一神教は下記の二つに分けれれるが、ユダヤ教が継承したのは後者の考え方である。
 ① 普遍主義的一神教(十字軍や世界布教活動に現れた言説)
 ② 個別主義的一神教ユダヤ教徒は卓越の民であるが単にユニークな存在であると云う言説)
 一神教にも様々の形態があるということですね。因みに神道は多神論と思われていますが、国家神道は西洋文明の圧倒的な影響下に形成された一種の祭政一致の一元論の如きものという理解も可能です。
 国家神道もまた、一見自然を敬うように見えながら自然への敵意が存在すること、国家神道の名の元に三分の二以上の神社や森が破壊されたことは近過去の出来事に属することなのです。ユダヤ教に限りませんが、宗教と自然の関係がどうなっているかをとらまえておくことは重要な示唆を得ることが出来るでしょう。

 
 最後に最も問題をはらむものとしてのシオニズムの問題、この問題は19世紀のヨーロッパにおけるホロコーストディアスポラを通して徐々に確立される。土地を失った交易の民として生きてきたユダヤ人にとって定住すべきカナンの地の問題はユダヤ人問題と云うものを一変させる。
 シオニズムという名の民族主義運動の中で何故パレスチナの地であるかの理由はマゴネット氏によれば、そこがローマによって解体されるまでユダヤ人が存在していたということが論拠の一つになっているらしい。さらにもう一つの理由は「古への憧憬とブラハムに対する」「神の拘束」の問題が重要な根拠としてあるらしい。しかし今日言うユダヤ人とは誰の事なのか?ローマ帝国に解体される以前、南北に分かれて成立していたと云われる両ユダヤ王国の末裔なのであるか、それとも数千年にわたる移動と混血の過程を経て形成された「西洋の影」の如きものではないのか。入植者にとってそこが継続的な定住の場所になっているという指摘もまた、その地が何故イスラエルなのかという疑問を解く答えにはなりえないであろう。

 さて、マゴネット氏のユダヤ教に関する解説を要約しその都度論評を加えてきたわけであるが、ユダヤ教に関する説明を聞いたのは初めてで、啓発的な時間を経験することが出来た。
 皆様はユダヤ教jについてどのようにお考えになるだろうか。ここでマゴネット氏によって紹介されたユダヤ教が実際のユダヤ像と一致するのか、歴史的存在としてのユダヤ教の実像と一致しているであろうか、その判断を下すことは避けたい。ここでは弱冠の問題提起のみを提出できることだけに満足しなければならないだろう。

 わたしは、今回のユダヤ教との最初の出会いを通して感銘を受けたのは実に、ユダヤ教における神概念のユニークさであった。神の唯一性が、それでも人間の側の可疑性や異議の介在する余地を残す、そしてここで云う神の唯一性とは、この世の出来事の何れをも絶対視することなく公平に多元的にみる観方、ひいては偶像崇拝の歴史に対する抵抗の歴史としてユダヤ人の歴史を要約することがもしできるとするならば、それは今日における最も有意義なユダヤ教徒における世界史的な貢献、有意な行為のひとつであると考えられるのである。
 討議に参加された先生方、特に遠路はるばるお越しいただいたジョナサン・マゴネット様、ご苦労様でした。